近藤が育てたKANOの選手は日本の野球界でも活躍した【*注3】。一方で、多くの選手は戦後、故郷の台東に戻った。有名なのは、甲子園の準優勝メンバーの一人、上松耕一(陳耕元)だ。上松はアミ族ではなく、同じ先住民のプユマ族だが、戦後、台東で農業学校の校長になる。
【*注3:1931年の準優勝投手の呉明捷は早稲田大学で当時の六大学本塁打記録を作った。その後、4回甲子園に出た呉昌征は巨人などで活躍し、野球殿堂にも入っている。
台東県の知事も務めた息子の陳建年はこう回想する【*注4】。
【※注4:陳建年やその家族については司馬遼太郎の名著「街道をゆく 台湾紀行」の「千金の小姐」の一文のなかで登場している。】
「午後になると生徒たちの野球を農学校のグラウンドで指導し、そこにKANOの人たちも集まって自分たちも野球を楽しんでいました。美しい光景で、いまでも思い出します。KANO世代の人たちは野球が人生のすべて。子供たちを日本語で『ばかやろー』っていつも怒鳴りながら、わずかな収入からお金を出し合って、試合の遠征費を捻出していました」
上松は近藤を生涯の師と仰いだ。日本の敗戦が決まり、近藤が松山に引き揚げる直前、上松は台東から近藤をお別れに訪ねた。上松は一枚の結婚写真を近藤に渡した。近藤は生涯、その写真を手元から離さなかった。
戦後、大陸からきた国民党政府は、サッカーやバスケに力を入れ、日本が伝えた野球をあえて軽視した。だが、野球は廃れなかった。その灯をひっそりと台東で守り続けたのが上松ら先住民のKANO出身者だったのだ。