〈今般政府へ尋問の筋これあり〉と書かれたその文書は、明治政府に対して「維新はこれでよかったのか」というまさに「尋問」を行う宣言であった。その奥にあるのは「文明とは何ぞや」という問いに他ならない。
明治維新から150年間、日本の基本的な政策は「社会進化論」にのっとって進められてきた。イギリスの社会学者ハーバート・スペンサーが唱えた社会進化論では、社会は未開から文明へと進化すると考える。つまり文明とは進化の上に開かれた社会であり、それを目指すべきだという、近代化のイデオロギーだ。
だが、西郷はそこに根本的な疑問を抱いていた。
〈文明とは道の普(あまね)く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず〉(『南洲翁遺訓』)と断じている。西郷にとって文明とは道、すなわち正義が広く行われることであり、西洋の文明観とは大きく異なっていた。ヨーロッパが持つ技術の重要性を西郷は理解していたと思う。だが、日本人のよさを失う形での文明開化はあってはならないと強く感じていた。
西洋化としての文明開化を進めるべきという大久保と、西洋の物真似ではない普く正義を貫く文明開化を訴える西郷の「日本のあり方」の違いは、西郷が下野することとなった征韓論政変に投影されている。
史料を読む限り、西郷は軍事力を背景に韓国と交渉するつもりはなかった。武力を以て交渉するよう主張していたのは板垣退助であり、西郷は軍隊を連れて行かずに交渉し、あくまで外交で解決することを考えていた。大久保は文明開化を進めて国力を養うことを優先すべしと主張し、西郷は彼の文明観にそって「正義」を貫いて交渉すべしと主張したのである。