陵墓を発掘したところ、もともとは大きな門や豪華な建造物が建てられて、さらに2つの部分に分かれている陵墓が地下深くに掘られていた。地上部分には外側に深い堀が掘られていたほか、その内側には宮殿を模した建物があり、陵墓だけで小さな町ほどもあったという。
しかし、その後、それらの地上部分の建物や掘りや門などは破壊されて、地表部分は平らにされ、陵墓の入り口が分からないように埋められていたという。
周研究員はこれについて、「息子の曹丕が、陵墓が盗掘されてないように、当初建設した部分を破壊し、墓を暴かれないように留意したのではないか。仮に、悪意を持って破壊したとすれば、もっと墓や副葬品の破片が散らばっているはずだが、この遺跡の地下部分の内部には破壊された形跡がないからだ」と指摘している。
また、周研究員は「遺骨も埋葬された当時のままで、保存状態も良いことから、当時の状況を知る貴重な手掛かりになる」などと話している。