「厳格で怖い人でしたから、閣議のときも、閣僚は皆、直立不動で総理を迎えたものです」
しかし、自民党総裁に4選(当時は任期2年)し、沖縄返還を成し遂げた佐藤は、政権の終盤はニクソン・ショックや日米繊維交渉の泥沼化、沖縄返還時の密約の発覚などで民心は離れ、ボロボロで身を退いた──。
佐藤は安倍晋三の祖父・岸信介の5歳下の実弟だが、政界では岸と政治路線が異なる吉田茂首相に重用された。吉田が後継者として官僚出身の政治家を育てた、いわゆる「吉田学校」出身者の優等生だった。
首相に就任したのは東京五輪の翌月だ。前任の池田が「所得倍増」を掲げて日本を高度経済成長の波に乗せ、五輪の大成功を花道に退陣したのに対し、跡を継いだ佐藤内閣は苦難の連続だった。
就任早々、五輪後の不況に直面する。日本政治外交史が専門で『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』などの著書がある村井良太・駒澤大学法学部教授が語る。
「高度経済成長政策でオリンピックが終わる頃には日本経済はガタガタだった。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼の倒産や株価急落で大手証券会社が軒並み経営悪化、証券恐慌とも呼ばれた。佐藤内閣は山一証券への日銀特別融資や戦後初の赤字国債の発行による大減税などで危機を乗り切った」
そこから日本経済は成長率が年平均10%を超える「いざなぎ景気」に向かい、政権は安定する。
ちょうど安倍政権(第二次内閣)が発足当時、円高による輸出不振と長期デフレによる株価低迷に苦しんでいた日本経済を「異次元の金融緩和」で円安政策に転換し、輸出振興と株価上昇をもたらして長期政権の軌道に乗せた経緯と似ている。どちらも政権の前半は政策的に成功を収めた。