佐藤の沖縄返還交渉は沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び立つベトナム戦争のさなかに行なわれた。
国民の反戦運動が高まり、国会では自民党と社会党の左右対立が激化する中、ベトナム戦争を支持して“タカ派”と見られていた佐藤は、批判をかわすために「武器輸出三原則」や「非核三原則」を打ち出し、沖縄返還交渉でも「核抜き、本土並み」という条件を掲げて平和路線を鮮明にする。
1970年の最初の防衛白書には「わが国の防衛は専守防衛を本旨とする」と盛り込まれた。前出の藤井氏が語る。
「非核三原則は核兵器を否定するという意味で、米国と対立する理念です。なおかつ、日本は米国の核の傘に入って守られながら、負担を米国に委ねるという点でも利害が対立する。沖縄返還交渉で米国に“返してほしい”と頭を下げ、同時に非核三原則の理念で米国と対立軸を持ち、日本独自の道をつくった。佐藤さんの政治感覚は見事だった」
その裏では、佐藤は沖縄返還をめぐるニクソン米大統領との首脳会談で、“有事の際には日本側が沖縄への核持ち込みを認める”という内容の秘密合意文書を交わして米国を納得させた。
非核三原則はあくまで理念であり、現実の政治や外交を縛るものとは考えていなかったことがわかる。
佐藤は非核三原則でノーベル平和賞を受賞し、沖縄返還と並ぶ功績と評価されている。一方、佐藤時代の非核三原則や武器輸出三原則が、結果的に、「平和憲法さえ守れば国は安全」という思想を国民の間に定着させたという批判も少なくない。