古代日本の「倭国」の人々は、年齢も男女も関係なく政治に参加し、卑弥呼を“王”とした。それから数百年後の奈良時代、男性優位の法体系である「律令」を中国から取り入れたことにより“ジェンダー格差”が生じると、平安時代の清少納言は女性の社会的ポジションを「パッとしない」と書き残した──。
日本における“男女”の区分の歴史を振り返った国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉市)の企画展示『性差〈ジェンダー〉の日本史』(12月6日まで)が注目を集めている。古代から現代に至るまでの、性差に関する歴史が、多くの史料によって紐解かれているのだ。
「技術の革新」「国の方針」が「良妻賢母」を生み出す後押しをした
「家のことは女がやる」この考えが出てきたのは、近代に入ってからだ。専修大学文学部准教授で「性差の日本史の展示プロジェクト委員の廣川和花さんが解説する。
「明治前期に戸籍や法律婚などが整備され、その後、民法が公布されました。近世までの子育ては、村落共同体や親族など親以外も積極的にかかわるものでしたが、明治期の政策で『家族』というモデルがつくられて、子供を産み育てる責任を個々の家庭に背負わせることになりました。それによって、母親が子供の健康や教育を担うようになっていきました」(廣川さん・以下同)
一方で近代化を進める日本において、女性と子供は貴重な労働力でもあった。都市でも地方でも女性は生業も含めて労働に従事しており、工場労働者の男女比において、1920年代までは女性が男性を上回ったほどだ。
当時の主要なエネルギー源である石炭の採掘でも、女性労働者が活躍した。
特に女性坑内労働者(女坑夫)が多かった筑豊炭鉱(福岡)では、夫がツルハシで石炭を掘り、妻が石炭を搬出する夫婦共稼ぎが一般的だった。
「山本作兵衛画文」には、家族が一丸となって炭鉱労働に勤しむ姿が描かれている。子供も労働力の1人で、子守りのために入坑する息子は学校が長期欠席扱いになるという、いまでは考えられないエピソードが残っている。
この頃、米ワシントンで開催された国際労働会議(1919年)では女性や子供の労働者を保護する方針が固まり、1928年の「鉱夫労役扶助規則」改正によって女性の坑内労働は禁じられた。さらに、技術の発展(イノベーション)が、「妻女の天職は子供の教育」という国の主張を後押しし、女坑夫を家庭に向かわせた。
「運搬を機械化するイノベーションが進んだことで石炭を搬出するという妻の役割だった業務が不要になり、女性の坑内労働禁止を後押ししました。女性が坑内に入らなくなると炭坑の託児所が廃止され、女性が家庭で内職をしながら育児を担うようになりました」