だが、1950年に7つの制限を解除されると、朝鮮戦争特需もあって松下電器の業績は一気に回復する。1950年11月期には戦後初めての復配となり、1955年には激減していた従業員数も1万1000人にまで回復した。
「それ以降、幸之助は『会社には使命がある。利益は社会に貢献した駄賃である』と、社会貢献を口にするようなった。1951年の1月に初めて米国に行った影響も大きく、夜間も街中に電灯が灯って『明るい』と感じた幸之助は、日本も米国のような繁栄を目指さなければならないと考えるようになりました」(同前)
※週刊ポスト2021年6月4日号