「私立の強豪校はとくにそうですが、高校野球は学校の宣伝ですから。最近では公立もスポーツクラスや特別枠で有力選手を集めてます。彼らは野球で使い物にならなくなったら用なしです。レギュラーは甘やかされて野球が上手ければ何をしてもいいという人間が育ちます。こぼれ落ちたらグレます」
そんな時代の反省から、関田さんが指導する少年野球では徹底して暴力や悪質ないじりを諌めているという。当たり前の話だが、最近はともかく以前までは保護者の一部すら「たるんでる」「甘やかすな」とシゴキや暴力を肯定していたという。
「私たちの時代に育った連中はそれが当たり前で親になっちゃいましたからね。でも私はあの時代を繰り返したくはないんです」
でもスポーツって勝ち負けだけじゃないと思う
2020東京オリンピックに端を発したミュージシャンによる過去のいじめといじめ自慢の露呈もそうだが、次代にこうした価値観を持ち越したくない、そんな悲惨な時代は私たちで十分という考える大人が増えた。それはインターネット、とくにソーシャルネットワークがもたらした正の連鎖だろう。価値観のアップデートはスポーツ界にももたらされている。
「だから日ハムの件は怒りというより悲しいです。あこがれの選手たちがあれでは昔の悪い部活動そのまんまです」
関田さんには申し訳ないが、筆者はあこがれの選手だから模範になるべき、とは思わない。清濁あるプロの世界ですべてにおいて品行方正、聖人君子でいられるわけもない。彼らにとって野球は飯の種でもある。しかし変えられるべき部分は変えるべきだし、その機会が訪れたのなら全力で取り組むべきだ。シンプルに、暴力や差別を伴ういじりなど、野球そのものに必要ないはずだ。
「ああいう雰囲気になるのは組織や指導者の責任もあります。それはプロもアマも変わらないと思います」
そうしたコンプライアンス意識の低い組織、指導者も問題なのだろう。実際、あの円陣の映像配信は日ハム公式だった。あれを面白いと思ったのか、和気あいあいと思ったのか、担当者の感覚はよくわからないが何かが麻痺しているのだろう。日ハムの栗山英樹監督は中田翔選手に関して「正直、このチームは難しいと思っている」と語ったが、どこか他人事のように思えてしまう。こうした監督の態度を含め、さまざまな日ハムの問題点が選手の暴走と、チームの悪癖を生み出したということだろう。
「きっと私の話も、補欠のやっかみとかプロになれなかった負け犬の話にされるでしょう。でもスポーツって勝ち負けだけじゃないと思うんです」
当たり前の話と思うかもしれないが、素朴かつ真理である。勝ち負けだけで大人になるということは、とても恐ろしいことだ。他人の命などどうでもいいと公言する人間になる。言動は行動になり、そして運命になる。
関田さんから伺った話は部活としての野球を基にしたものだが、このことはスポーツに限らず旧態依然の会社組織や地域社会にも当てはまる。いじめと同様、いじりもまたいじる側の感覚といじられる側の受け止め方は違ってくる。信頼関係も相互のリスペクトもないままに他者を誹謗、ましてや出自や容姿で差別する行為など言語道断であり、そんなものはコミュニケーションの一環でもノリの良し悪しでもない。圧迫や暴力が伴うならそれはもはや犯罪である。会社や地域で、同様のことがいまだ蔓延っている。
と同時に社会規範のブラッシュアップは急速に進んでいる。それはスポーツ界に蔓延る暴力やかわいがり、いじりにも及び、新たな価値観の人々が批難の声を上げている。ここでは言及しなかったシゴキなどもそうだろう。殴る蹴るはかわいがり、いじりはコミュニケーションの一環という平成までの価値観からの脱却が求められている。中田翔選手のような旧来の「悪太郎」「悪童」「番長」と呼ばれるようなキャラクターはもう無理なのだ。幸いにして中田翔選手は巨人入りとなった。きっとファンのためにも再起してくれるだろう。
何度でも言う、いじめ(暴力、差別、悪質ないじり)は犯罪である。そして絶対に次代に持ち越してはならない。完全消滅など不可能かもしれないが、私たち大人が声を上げる姿勢だけは止めてはならない。本気でこの問題に取り組まず中田翔選手を排除するだけで済ますなら、日ハムの暗黒時代は球団だけでなく会社そのものにも訪れるだろう。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社・共著)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。近著『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。