古墳から出土する埴輪は殉死を無くすために「身代わりの人形」として作られたと『日本書紀』の垂仁天皇紀に書かれてある。考古学者の多くは実際の発掘状況と一致しないという理由で、これは事実では無く単なる伝承だと考えるが、古代の日本に殉死の例がほとんど見られないのは事実である。ところがこの習慣、戦国時代に復活してしまった。「武士道は死ぬことと見つけたり(『葉隠』)」だからである。

 平時と違って戦時は「毎日が戦争」であり、「主君の馬前で討死すること」が究極の忠義だ。しかし、必ずそれがかなうとは限らない。むしろ主君が「勝ち組」になれば、桶狭間の今川義元とは違って天寿を全うして畳の上で死ぬから、討死できなかった家臣も老いさらばえて主君の死を迎えることになってしまう。ならば当然「追い腹かき切って」死ぬべきだ、という考え方が生まれた。この場合は後継者も十分に成長しているわけで、国や家が弱体化する心配も無い。むしろ世代交代を促進する効果もある。

 徳川家康はこの時代の人間としては珍しく家臣を大事にしたせいか幕法で殉死を固く禁じたが、武勇を尊ぶ九州の大名家ではなかなか根絶できなかった。九州の大名家で殉死にまつわる悲劇と言えば、多くの文学ファンが思い浮かべるのが森鴎外の『阿部一族』ではないだろうか。じつは、小説はそれまで『舞姫』のような「現代物」しか書いていなかった森鴎外が「時代物」を書くようになったのは、この乃木の殉死がきっかけなのである。

 文学の世界ではこの殉死に対する評価は真っ二つに分かれた。新しい世代の代表とも言うべき小説家芥川龍之介は、その作品『将軍』であきらかに乃木と目される人物を批判的に書いた。森鴎外はそれとはまったく逆の立場で初の時代小説『興津弥五右衛門の遺書』を書き、乃木を擁護した。陸軍軍医でもあった 外森林太郎は乃木と同じドイツ留学組で、個人的親交もあったのだ。文学者、ジャーナリストの意見の対立については別にまた詳しく分析する。

「乃木大将は馬鹿だな」

 検視報告によれば、二人は自邸の居間において壁に掛けられた明治天皇の御真影(肖像写真)の前で正対し、乃木は軍刀で割腹したのち剣を持ちかえて頸動脈を切断し絶命した。静子は護身用の懐剣で心臓を突き刺して死んだ。かたわらに乃木の遺言書「遺言条々」と辞世の歌が置かれ、静子も辞世を残していた。

〈うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり〉乃木希典
〈いでまして 帰ります日の なしと聞く 今日のみゆきに あふぞ悲しき〉乃木静子

 意味は訳さずともおわかりになると思うが、問題は「遺言条々」のほうである。なぜ乃木は殉死を決意したのか。現在も乃木神社に保管されている遺書は、「条々」と題しただけあって箇条書きになっている。その第一項の書き出しは「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候」であり、現代語に訳せば「自分はこのたび畏れ多くも天皇陛下のお後を追わせていただくため自殺をいたします。私の罪は軽くありません」である。

 では、その罪とはなにか。乃木が第一項で述べているのは明治十年の西南戦争のおり、田原坂の激戦で「軍旗」つまり連隊旗を敵に奪われてしまったことである。たかが旗と言ってはいけない。これは天皇から連隊の象徴として下賜されたものなのである。しかし、いくら重要なものであっても陸軍の優秀な士官となった乃木が自殺をしてまで償うようなものでも無いし、田原坂の激戦は優秀な士官でもそうした失態を招くような状況であった。いわば不可抗力であり、だからこそ乃木もその後ドイツ留学を許され大将にまで昇りつめることができたのだ。しかし乃木はそれをずっと大きな罪と感じ、死に場所を探していたと告白している。

 司馬遼太郎が「乃木愚将論」を展開したことで一時乃木人気は地に落ちたが、戦前の乃木は庶民にも人気のある将軍であった。前にも述べたように、旅順要塞陥落後の敵将ステッセルに対する寛容で武人の鑑とも言うべき態度は多くの国民の共感を呼び、唱歌『水師営の会見』が作られたほどだ。この歌は昭和二十年以前に教育を受けた人間ならば知らない人はいないというぐらい有名なものである。

 しかしそうした人気抜群の頃の乃木でも、唯一批判されたのが旅順攻略戦で「多くの将兵を死なせた」ことだ。もっともこれも、後に確立された軍事学の常識で言えば「少ない戦死者で見事に攻略した」という評価になるのだが、戦国時代にも無かった万単位の人間が戦死するという大きな悲劇に直面した日本人はそうは思わなかったし、乃木自身もそれを自分の罪と考えていた。だからこそ長男も次男も危険な場所に配置し、二人が戦死すると「少しは申し訳が立った」と述べたのである。だが、そのことは遺書には書かれていない。

 乃木にとって少佐時代の不可抗力的な事件こそが、その後の人生を決定したもっとも大きな軍人としての失策だったのである。

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