1970年代 まったく新しい感覚の音楽の風を吹き込んだ
東京・八王子の呉服店に生まれたユーミンは、立教女学院高等学校在学中に歌手の加橋かつみ(当時23才)に「愛は突然に…」という楽曲を提供。18才で歌手としてデビューを飾る。当時は、多摩美術大学絵画学科で日本画を専攻する美大生だった。
ユーミンのデビューから取材を重ねている前出の富澤さんは、当時の印象を次のように語る。
「いるだけでパッと周囲を明るくするような華やかさがありました。そして、会話のセンスも抜群。中学・高校時代から文化人のサロン的な存在だったイタリアンレストラン『キャンティ』に出入りしているだけあって、大人にも動じることがなく、堂々としていました」
当時の富澤さんは音楽評論家として活動していたが、ある音楽プロデューサーから、デビュー前のユーミンをどう売り出すかについて、相談を受けたという。
「そのプロデューサーこそ、ユーミンの才能を発掘し、世に送り出した村井邦彦さんです。村井さんはザ・タイガースの『廃虚の鳩』やザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』の作曲を手がけたヒットメーカー。あの頃、ぼくはあちこちの音楽雑誌に評論を書きまくっていたので声をかけてくれたのだと思います」(富澤さん・以下同)
というのも、デビュー曲の『返事はいらない』は、完成度は高かったものの鳴かず飛ばずで、後にユーミン自身が「300枚ほど」と振り返っているほど、セールスとしては不振だったからだ。
「村井さんから渡されたデモテープを聴いたとき、これまでの音楽とはまったく違う、新しさがありました」
折しも、1970年代初頭は、かぐや姫に代表されるようなフォークグループの全盛期。歌詞の内容も銭湯が登場するような生活感があるものが多く、メッセージ色の強いものが中心だった。そうした中で、ユーミンの曲はほかと違いすぎたのだ。
「ユーミンの音楽はヨーロッパの風景を感じさせるような、さわやかなイメージで、とても新鮮な衝撃を覚えました」
まだ10代だったユーミンが生み出す音楽に魅了された富澤さんは、彼女に直接会い、さらに衝撃を受けたという。
「当時、圧倒的に人気だった五輪真弓さんは、Tシャツにジーンズといったスタイルが多かったのですが、待ち合わせの場所に現れたユーミンは、まるで当時、創刊されたばかりの雑誌『an・an』(マガジンハウス、1970年創刊)から飛び出してきたような女の子。カジュアルなジャケットを颯爽と着こなし、こちらの目をまっすぐ見て話す意思の強さも感じました。
ものの見方も独特で、思ったことをズバズバ話すのですが、所作が美しく、育ちがよいせいか、不思議と嫌な感じはしなかったですね」
それまでのフォークシンガーとは、ファッションも音楽性もまったく違うユーミンに、富澤さんはキャッチフレーズをつけた。それは、“新感覚派ミュージック”というものだ。