「子供は未発達ですから、置き去りにされても『置き去り』と思わなかったりします。子供によっては『なにか意味があるのかな』『ここに居なさいってことかな』『僕なにか悪いことしたかな』と素直に車内に残ったままになってしまう。また『迎えに来てくれる』とずっと待ってしまうのです。昔、パチンコ屋などで置き去りにされて亡くなった子供たちも同様でしょう」
クラクションはエンジンを切っても鳴らすことができる。以前から一部で提唱されている、万が一の時にはクラクションを鳴らすなどの教育は有効か。
「多くの子供と長く接していますが『難しいな』と思います。大人ならともかく、子供によってはいたずら好きの子はいますし、そういうことを覚えると、発達の程度によってはひたすらクラクションを鳴らしてしまう子もいます。童話の『オオカミ少年』の話ではないですが、万が一の時に『ああ、またやってる』となりかねません」
あるワイドショーの司会者やタレントは「(幼稚園バスの)ドアは開けっ放しにしといた方がいいと思う」とも言っていた。
「とんでもない、それこそ事故が起きかねません。子どものいたずらもそうですが、防犯上もそんなことできませんよ。この事件は本当に悲しいし許せませんが、それは話が違うと思います。昔、校門を無理やり閉じて生徒が死亡した事件がありましたが、だから校門を無くせとはならないでしょう。この仕事をしていれば当然の『当たり前の確認をしなかった』それだけのことです」
悲しみや怒りは当然だが、元運転手もそうだが事を冷静に、シンプルに考えることは現場の人、プロはみな同じだなと思う。
置き去りにした運転手である理事長兼園長は記者会見で死亡した児童の名前を間違え、何度もチェックしたはずという趣旨の説明に終始した。亡くなった児童は50度超えの車内で裸になっても車内に残り続けたという。園から保護者への説明会ではあまりのショックに保護者や職員がバタバタと倒れ、救急車が何台も駆けつける騒動になった。その気持ちは痛いほどわかる。個人を責めても、という人はいるかもしれないが、さすがに置き去りにした当事者であるはずの運転手、園長の「廃園になるかもしれないね」と笑った態度はどうかと思う。
冒頭の元運転士は「常に間違う」という心がけが大切と訴える。
「私は常に間違う、と思うべきです。プロほど自分を信用しません。誰も逆らう人のいないような方にはありがちだと思うのですが、私は間違わない、私は絶対と思っていると必ず事故は起こります。また、数は間違うものです。ですから、必ず自分の目で確認して欲しいのです」
この元運転士の言葉に対して「結果論だろ」「目視しても間違うだろ」と揶揄する向きもあるだろうが、現実は、運転手があのとき少しでも「私は常に間違う」と自覚し、たった1度でも、「人が残っていないか」と車内を見回すだけで、救えた命のはずなのだ。
※認定こども園は幼稚園と保育園の機能を兼ねたもので認定基準も異なるが、本稿においては便宜上「幼稚園」とした。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員、出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。