水戸黄門に「正一位」を追贈
さて、長々と南北朝正閏問題について述べてきたが、この問題は結局政府が「両朝併立」は過ちと認め、文部省は責任者として喜田貞吉博士を役職から解任し国定教科書の記述を南朝正統論に改めるという形で決着がついた。一般には、それを明治天皇が裁断したと伝えられた。その件について、とくに明治天皇が詔書を発布したなどという事実は無いが、南朝正統論を推進する側に明治天皇もそれを支持したとする根拠はあった。
というのは、江戸時代においては決してスタンダードでは無かった南朝正統論をいち早く採用し『大日本史』の編纂を進めた徳川光圀(いわゆる水戸黄門)に対し、明治天皇は一九〇〇年(明治33)の段階で「正一位」を追贈していたからだ。前にも述べたが、明治維新は水戸学の影響を強く受けている。維新の志士と言われる人間で水戸学の影響を受けていない者はいない。そのため、もっと光圀は顕彰されるべきという考え方が明治人にあった。
逆に言えばその風潮に明治天皇は乗っただけで、必ずしも南朝のみを正統とする議論に賛成だったとは言えないかもしれないのだが、「正一位」の追贈という行為の意味は重く、結局南朝正統論が明治政府のスタンダードとなった。
この幸徳秋水発言に端を発した明治の南北朝正閏論争の最大の問題点、つまり後世に与えた悪影響はそれまで比較的自由が認められていた天皇に対する歴史学の考究に、水戸学という中国の朱子学の影響を受けた独善的排他的なイデオロギーの枠がはめられ、きわめて不自由なものになってしまったことだ。それは歴史学にとどまらず、たとえば後に政治学の分野でいわゆる天皇機関説が「不敬」だとして弾圧されるような風潮にもつながった。
また昭和前期に二・二六事件を起こす陸軍皇道派の硬直した国家観にも影響を及ぼしている。前にも述べたように、朱子学とは「歴史という鏡」を割ってしまう、とんでもない「宗教」いや「邪教」なのである。
さて、「桂太郎」という項目にずいぶんと紙数を割いてきた。読者のなかにはいささか「食傷気味」の方もいるかもしれない。しかし、桂については語るべきことがまだ残っている。「総理大臣在任期間二千八百八十六日」はダテではないということだ。「大逆事件」そして「南北朝正閏論」は桂の「負の功績」の部分だが、「韓国併合」はともかく日露戦争を勝利に導いたことは、あきらかに桂の功績として評価すべき部分である。
そして、桂の功績としてもう一つ評価しなければならないのは、複数政党制下における選挙結果による政権交代の道、いわゆる大正デモクラシーへの道を開いたことだ。しかし、それは当然の話だが一人あるいは一政党ではできない。野球のキャッチボールが一人ではできないのと同じことだ。では、桂の「相手」になったのはどういう人物か? その名を西園寺公望という。その略歴は次のようなものだ。
〈政治家。公爵。号陶庵。徳大寺公純(きんいと)の二男。王政復古に参与。戊辰(ぼしん)戦争にも参加し、のちフランスに留学。明治一四年(一八八一)明治法律学校(明治大学の前身)を設立。同一五年伊藤博文の欧州憲法調査に随行。文相、外相、枢密院議長、政友会総裁などを歴任したのち、同三九年首相となる。同四四年には第二次内閣を組織した。大正八年(一九一九)にはパリ講和会議首席全権委員。のち、最後の元老として活躍した。嘉永二~昭和一五年(一八四九~一九四〇)〉
(『日本国語大辞典』小学館刊)
桂太郎が「総理大臣在任期間二千八百八十六日」なら、西園寺公望は九十歳を超えるまで生き、「最後の元老として活躍した」。この二人は思想信条も対照的だったが、それぞれ率いた政党の長として明治の終わりから大正の初期にかけて、ほぼ交互に政権を担当した。桂は山県有朋、そして西園寺は伊藤博文の後継者と言えるだろう。この二人の時代を桂太郎の「桂」、西園寺公望の「園」を取って「桂園時代」と呼ぶ。
(「国際連盟への道2」編・完)
※週刊ポスト2022年10月7・14日号