当然、東ローマの後継者を自任するロシア帝国は面白くない。そして十九世紀になるとヨーロッパ全体のなかでは「後進国」であったロシアも、アジアやアフリカの国々にくらべれば科学技術による近代化が進み、清帝国やオスマン帝国のように「百年前の武器」しか持っていない国を攻略できるようになった。こうなればしめたもので、クリミアを拠点としてオスマン帝国を攻めイスタンブールを奪回して「コンスタンチノープル」に戻すことも夢では無い。それが当時のロシア皇帝ニコライ1世の野望であり、彼は次男にコンスタンチンという名を与えていた。
こうしてロシアは南下政策を始めたのだが、この野望が実現してしまえばロシア帝国は新たな東ローマ帝国になってしまう。そこでイギリスは歯止めをかけるため、フランスを誘ってオスマン帝国に味方した。ちなみにそれは他のヨーロッパ諸国にとっても脅威であるので、この当時まだイタリアという国は無かったが、その一角であるサルジニア王国が連合国側に加わった。きわめて珍しいと言っていいキリスト教徒とイスラム教徒の連合軍ができたのは、ロシアという共通の敵がいたからである。
ちなみに、オスマン帝国はのちに解体縮小しイスタンブール周辺はイスラム教徒の国家トルコ共和国になるのだが、その後ソビエト連邦(現ロシア)の脅威に対抗するため西ヨーロッパ諸国が連合を組んだNATO(北大西洋条約機構)にイスラム国家として唯一トルコが参加しているのは、この伝統を踏まえたものと言えよう。
このキリスト・イスラム連合軍に一八五五年、ロシアは敗れた。翌年パリで講和条約を締結させられ、クリミアの海とも言える黒海は中立地帯と決められ結果的にロシアは当分の間は黒海艦隊を持てなくなり、東ローマ帝国復興の夢も泡と消えた。
しかし、ロシアはヨーロッパからアジア方面にまたがる大国である。西側の南下政策が封じられたのなら東側に力を集中すればいい。幸いにもロシアの東側にあたる東アジアには清国、朝鮮国、日本国という「遅れた国」しかない。しかし、ロシアはその地域のもっとも南に位置し、シベリア開発の補給地となり得る日本をいきなり侵略しようとは考えなかった。むしろ漂流者であった大黒屋光太夫を優遇し、日本語を学び貿易ルートを作り共存共栄の友好関係を築こうと考えた。だからこそラクスマンやプチャーチンらを派遣し、イギリスとはまったく違った形で友好親善を求めたのだが、『逆説の日本史』の「幕末年代史編」あるいは『コミック版 逆説の日本史 江戸大改革編』『同 幕末維新編』で詳述したように、「呪われた宗教」朱子学に毒された日本は結局ロシアやアメリカからの友好の申し出を頑なに拒絶し、彼らを怒らせてしまった。
だから、その後ロシアは「朱子学中毒」の清国、朝鮮国、日本国をイギリスがアヘン戦争でやったような乱暴だが利益幅の大きい方法で植民地化すべきだと考えるようになった。ただロシアは広大な国土がウラル山脈によって分断され、東西の交流が困難という課題を抱えていた。それゆえ、その弱点をシベリア鉄道の建設で補おうとしたのである。
おわかりだろう。「あれ、今回はずっと世界史の話か」と思っていた読者もいるだろうが、じつはこれは日本史の話でもある。『コミック版 逆説の日本史 江戸大改革編』で、「時間と空間はどこでもつながっている。本来、日本史とか世界史の区別は無い」と申し上げたとおりだ。ロシアという大国がクリミア戦争によって西側への「南下」を封じられたがゆえに、彼らは東に力を入れようと方針転換したのだ。
それゆえ西であれ東であれロシアがこれ以上の領土拡張をすることを好まないイギリスと日本は日英同盟を結ぶことができたし、ロシアはクリミア戦争に負けたためヨーロッパ側では艦隊を維持するのにもっとも適した黒海が利用できず、外側のバルト海を本拠としたバルチック艦隊を維持強化せざるを得なかった。それゆえ、日本が日露戦争で旅順艦隊を撃滅したとき、応援に向かったバルチック艦隊はかなりの遠洋航海をして東洋へ向かわねばならなくなり、「体力」を弱める結果になった。
歴史というものは、このように「すべてつながっている」ものなのだ。二〇一四年にロシアがクリミアを強引に併合したのは、ソビエト連邦からクリミアを受け継いだウクライナ共和国にいまのゼレンスキー政権のような西側寄りの政権が出来、ロシアが辛うじて確保していた黒海艦隊の基地セヴァストポリ軍港の租借が白紙に戻される「危険性」が出たからなのである。
話を戻そう。西園寺公望がパリに到着したときには、第二帝政はじつは終わっていた。では、ナポレオン3世はなぜ権力を失ったのか?
(第1358号へ続く)
※週刊ポスト2022年10月28日号