こういう家庭環境で育つと、子供は学校で暴れるようになるんだね。そのときの私の心境をひと言で言えば、「寄らば切るぞ」。心に刃物を秘めて毎日、小学校に通っていたんだわ。
《児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、よい環境のなかで育てられる。》
小学校の廊下にかけられていた「児童憲章」を、私は遠い国のおとぎ話のようにただただ見上げてた。
義父と私のバトルは私が中学生になるとさらに激化して、ついには義父が「中卒で働け。高校に進学させない」と言い出すところまで悪化した。
「ただでさえ生意気な娘に知恵をつけたら、もっとオヤジをバカにするようになる」というのが義父の言い分で、これにはさすがに義父の身内も「あんまりだ」と止めたけれど、どう言っても首を縦にふらなかった。
結局、母親の友達が、住み込みで働いたら高校に通わせてくれる商店を見つけてくれて晴れて高校生になれたんだけどね。
当時の私は、義父が怒鳴っている間中、ずーっと反撃の方法ばかり考えていた。義父を観察して弱みを見つけ、それをギリギリの線で当てこする。うまくいくこともあれば火に油を注ぐ結果になることもあったけれど、そうして毒をため込んでいたわけ。
4年前に亡くなった義父とは、晩年は昔のことなどみんな忘れた顔して笑ってつきあっていたけど、それでもさら〜っと歌うように義父を傷つけた。
「義父ちゃんよ。がんになったら告知した方がいいか、それとも黙っててほしいか、いまのうちに決めておかね?」
体の衰えた義父は動揺する。それが私には面白くて仕方がないのよ。
「ヒロコよ。最近、食い物がノドを通らねーごどがあんだけど、どうしたんだっぺ?」
亡くなる2年前、そう言って、薄くなった胸をトントンと叩く義父に「ああ、そりゃ、まちがいなくがんだよ」と私は言い放った。
ガックリ気落ちした義父にちょっとだけ胸が痛んだけど、実はその何倍もスッキリしていた。義父への思いはいまでも複雑だ。
【プロフィール】
「オバ記者」こと野原広子/1957年、茨城県生まれ。空中ブランコ、富士登山など、体験取材を得意とする。
※女性セブン2022年11月3日号