前にも述べたが、「官僚主義的気風」の東大からはノーベル賞受賞者が出ず、京大出身者が多数を占めた時代もたしかにあった。またこの時期、西園寺の肝煎りである総合雑誌が創刊された。『世界之日本』という。
〈世界之日本 せかいのにほん
明治中期の総合雑誌。明治二十九年(一八九六)七月二十五日創刊、三十三年三月二日廃刊(通巻全九十四冊)。当初半月刊、ついで月刊、さらに週刊。竹越与三郎(三叉)が主幹者として、陸奥宗光・西園寺公望らの支援で東京市京橋区の開拓社より発行。日清戦争後の国民像を「世界を組織する列国の一」つの国民と捉えて、世界的視野からその育成をはかろうとした雑誌で、内村鑑三・山路愛山・梅謙次郎ら明治中期の著名な言論人や学者が寄稿し、文芸作品も多彩である。この間、月刊化と同時に三十年一月五日より日刊新聞『世界之日本』(四面建て)を平行して発行したが、同年十月十六日(第二三六号)に廃刊している。国立国会図書館・東大明治新聞雑誌文庫所蔵。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 項目執筆者佐藤能丸)
この『世界之日本』という雑誌名も、西園寺の命名によるものだという。西園寺は「世界」という言葉が大好きで、演説にもしばしば使用し女子教育および英語教育の重要性を訴え続けた。そのため当時のジャーナリズムからは「国粋主義」に対抗する「世界主義」の推進者とみなされた。もっとも西園寺自身は世界主義などと言ったことは一度も無いと否定しているが、西園寺に見込まれ『世界之日本』の主筆となった竹越与三郎は創刊第一号の「社説」で次のように述べている。
〈日本は絶對の一國にあらず、共存共制の大法に繋がれ世界を組織する列國の一にして、東京灣の水は直ちに金門港(金門橋のあるサンフランシスコのことか。引用者註)の水と相潮汐するが如く、列國の思想生活互に相觸着し、相感動するを知らば、世界の勢力と相背きて永く孤獨を守る能はざるや、初めより明か也。〉
これはまさに西園寺の思想そのものだろう。ちなみに、竹越与三郎は後に西園寺の伝記作者となる人物なのでその人となりを紹介しておくと、一八六五年(慶応元)に武蔵国本庄宿(埼玉県本庄市)の酒造業一家の次男として生まれた。西園寺より十六歳年下ということになる。次男であったため早くから学問を志し、『西国立志編』の著者中村正直に学び、ついで慶應義塾で福澤諭吉に学んだ。
生家の姓は「中村」だったが、伯父の家に養子に行き竹越姓になる。そして福澤の勧めで新聞記者となった。またこのころ、キリスト教の洗礼を受けた。徳富蘇峰とも知り合い国民新聞の記者となり政治評論を担当したが、この間歴史に興味を抱き明治維新史を多方面から分析した『新日本史』を刊行し、アカデミズムとは一線を画した在野史家としての地位を固めた。
竹越は後に古代から明治維新までの日本通史『二千五百年史』も書いているので、この分野における筆者の「先輩」ということになるわけだが、同じく通史である『近世日本国民史』を著した蘇峰とは歴史観の違いで対立し、袂を分かった。前にも述べたように、蘇峰は日清戦争以降国粋主義的な立場を強め、西園寺のライバルである桂太郎のブレーン的な存在になっていった。これに対して竹越は「世界主義」であったがゆえに西園寺の知遇を得て、そのブレーン的な存在になった。