毎年、大晦日になると基地のクラブでは、0時に電気を消して『蛍の光』を演奏するのが定番になっていた。
「暗闇の中でなら、誰とキスをしてもいいという暗黙の決まりがあったようなんです。そんなことは知らずに私がステージに座ってキョロキョロしていたら、若い兵隊さんが近付いてきて、夫が『悌ちゃん、逃げろ! 逃げろ!』と叫んでいたのを覚えています。将校クラブは上品な人が多かったので危険な目に遭うことはなかったし、何より夫が常に見守ってくれていましたから。もう、べったりでした」(齋藤さん)
当時は1ドルが360円だった時代。基地で働いていた齋藤さんと勝さんも、公務員の3倍近い給料をもらっていたという。
「夫が250ドルくらいで、私が200ドルでした。たしかに収入はよかったですけど、ミュージシャンって給料が入るとみんなでパーッと使っちゃうんです。レストランやクラブでは、どこでもVIP扱いで、派手にお金を使うから女性にモテる。だから、毎晩飲みに行っちゃうんですね。
お酒を飲みすぎたせいか、あの頃に一緒にバンドをやった人でいまも生きている人はほとんどいません。夫はお酒が弱い方なのでそこまでではなかったですが、それでも毎晩のように外食を楽しんでいました」(齋藤さん)
ベトナム戦争でアメリカの敗戦が濃厚になると基地の予算は大幅に削減された。多くのバンドマンが解雇され、物資の調達で潤った日本のベトナム特需も終わりを告げる。齋藤さんが勝さんと共に、夫の故郷・千葉に移り住んだのは、そうなるより前のこと。1965年頃に本土に渡ってからも、夫婦はホテルやナイトクラブのステージで演奏を続けた。東山盛さんが述懐する。
「家にいるときも、仕事のときも両親は常に一緒。別々に行動しているのを見たことがないんです。子供から見ても、本当に仲のいい夫婦で、父の希望で石垣島に移住してからも、ずっとふたりで楽しそうに演奏していました」
取材・文/鈴木竜太
(第4回へ続く。第1回から読む)
※女性セブン2023年2月2日号