尾崎行雄については少し詳しく紹介しよう。
〈おざき―ゆきお [をざきゆきを]
【尾崎行雄】
[1858~1954]政治家。神奈川の生まれ。号、咢堂(がくどう)。明治15年(1882)立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年(1913)の第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された。〉
(『デジタル大辞泉』小学館)
アメリカの首都ワシントンでは春になるとポトマック河畔の桜の満開を祝って毎年祭りが開かれているが、そもそもこの数千本の桜の苗木を送ったのも東京市長時代の尾崎行雄であった。そして彼が「憲政の神様」になったのは、まさにこの第一次護憲運動での活躍の賜物なのである。
第一回憲政擁護大会に引き続いて翌一九一三年(大正2)一月十七日には全国記者大会が東京築地の精養軒で開催され、四百人が出席し憲政擁護を叫んだ。同月二十四日には第二回憲政擁護大会が東京の新富座で開かれ満員となり、二月一日の大阪憲政擁護大会では会場の中之島公園に三万人もの聴衆が詰めかけた。そして二月五日には東京で数万の民衆が帝国議会議事堂を取り囲み、気勢を上げた。「桂よ、退陣せよ」ということだ。
ちなみに、このときの議事堂は木造の粗末なものであった。もともと最初の帝国議会開催に間に合わせるための建物で拙速で建てられたからだ。現在の議事堂は一九三六年(昭和11)に完成したものである。
憲政擁護運動の盛り上がりに対して、桂首相は国民党の分裂を策し政党勢力の勢いを削ごうとしたが、政党勢力には国民の熱狂的な支持がありどうしてもうまくいかない。桂は議会を開催するといきなり内閣不信任案が可決されるのが火を見るよりあきらかだったから、首相の権限で停会をくり返した。だが、これはもともと非常時の措置として認められているものだから、いつまでも引き延ばすわけにいかない。二月五日に国会を再開せざるを得なかった。それゆえ、この日に大勢の民衆が議事堂に詰めかけたのである。
その民衆に励まされた政友会と国民党の代議士は、胸に白バラをつけて登院した。そして不信任案の提案理由の説明に立った尾崎行雄は、首相の姿勢は「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか」という憲政史上に残る名演説を行なって桂を追い詰めた。万策尽きた桂は民衆に包囲された議事堂で退陣を決意し、二月十一日に総辞職した、しかも体調を崩し、桂は同年十月十日死去した。尾崎は言論の力で閥族・桂太郎を「討ち取った」。だから「憲政の神様」と呼ばれたのである。