西園寺と山本の「密約」
前にも述べたが、日露戦争のときにポーツマスでの講和条約に大きな不満を抱いていた民衆が起こした日比谷焼打事件は、大正デモクラシーの先駆けでは無い。あれは司馬遼太郎が喝破したように、「向こう四十年の魔の季節の出発点」であり、具体的に言うならばデタラメなマスコミ(新聞)の煽動によって引き起こされた民衆の暴動だった。しかし、この大正政変における桂内閣退陣要求が成功したのは、大正デモクラシーの第一歩として評価すべきだろう。
それでも、憲政擁護運動が100パーセント成功したかと言えば、決してそうでは無かった。というのは、もし成功というならこのとき桂内閣の後に純然たる政党内閣が成立しなければならない。だが、実際に成立したのは薩摩閥の一員の海軍大将山本権兵衛による内閣であった。しかも、この内閣には政友会の議員多数が大臣として入閣した。犬養毅率いる国民党は国民の期待を裏切るものとして激怒したし、尾崎行雄は憤然として政友会を脱党した。なぜ政友会が藩閥内閣を支持したかと言えば、じつはその裏には西園寺公望の暗躍があった。いったい、なぜそんなことをしたのか?
政友会は初め政党政治に懐疑的だった伊藤博文が、やはり日本でも政党政治を確立すべきだと結党したもので、もともと御用政党の側面を持っていた。これを引き継いだ西園寺は桂園時代になんとか政党政治を定着させようとしたが、実際にはうまくいかなかったことはすでに述べた。だが桂が大逆事件を「デッチ上げ」、さらに軍部大臣現役武官制を利用して西園寺自身の内閣をつぶしてきたとき、西園寺はどんな手を使っても「陸軍の横暴」は叩きつぶすべきだと思ったに違いない。「違いない」と予測の形で述べるのは、例によってその決意を述べた「史料が無い」からだが、倒閣された後の西園寺の行動を見れば、その思いは明白である。
桂は桂で憲政擁護という名の桂内閣打倒運動が盛り上がるなか、当時政友会総裁だった西園寺に「不信任案撤回」を求めた。西園寺はにべもなくこれを拒否した。記録には無いが、桂はこのとき西園寺に対しもう一度首相をやってくれ、そうすれば騒ぎは収まる、と持ちかけただろう。西園寺は藩閥出身では無いから、再び西園寺内閣が成立すれば多くの国民や議員が望んでいる「藩閥政治打倒」という目標は一応達成されたことになる。そのうえで君の望むような政治をやればいいじゃないかと、桂はニコポンのときの笑顔で語りかけたに違いない。しかし、上原陸相辞任による倒閣という煮え湯を飲まされた西園寺は、騙されまいぞと思ったはずである。だから桂の要求を拒否した。
ところが、会談の翌日不思議なことが起こった。
〈その西園寺が二月九日に天皇から「目下の紛擾を解き朕の心を安んぜよ」との御沙汰を受けた。口頭の御沙汰の趣旨につき西園寺は内大臣出仕の伏見宮貞愛親王に「具体的に申せば目下議事にある不信任案を如何にかせよ」と解釈すべきかと質問し、「然り」との返事を受けた。口頭の御沙汰であったため念を押したのであろう。副署はないが別に本文という勅語が伝わっている。前後を考えると後から体裁をととのえたのであろう。大正天皇や貞愛親王がみずからの発意でこのような政治的な勅語を出したとは考えられない。奏請したのが桂であることは見え見えであった。〉
(『西園寺公望―最後の元老―』岩井忠熊著 岩波書店刊)
この見解は正しいだろう。西園寺の弱点は、「天皇のご命令には逆らえない」ということだ。パリ留学からの帰国直後に渋っていた東洋自由新聞社長辞任を決断したのも、明治天皇がそれを望んでいると伝えられたからだ。これはその弱点を知っていた桂が画策して出させたものだろう。