明治天皇と違って、大正天皇は病弱で政治のことにあまり口出ししない。しかも、このころは即位したての満三十三歳という若さで政治経験はほとんど無い。そんな天皇が自らこんな命令を出すわけが無い。桂はこの直前に内大臣として宮中に出仕している。つまり、宮中には大きなコネクションがあった。それを利用したのだろう。まさに「玉座をもって胸壁とな」す男である。
西園寺にとって幸いだったのは、この命令は「不信任案を撤回せよ」という具体的な命令では無かったことだ。表向きは「紛擾を解け」つまり「国政の混乱状態を収拾せよ」だから、それさえ達成すれば天皇の御命令に背いたことにはならない。そこで西園寺は一応は尾崎らの説得を試みたが、それ以上の努力はせず会合には欠席した。つまり、後のことは尾崎たちに任せたぞという形を取ったのである。
そして首尾よく桂を辞任に追い込み、さらに「紛擾を解く」ため元老として次の首相に海軍の山本権兵衛を推薦した。山本は西園寺内閣が崩壊したとき、つまり火中の栗を拾う者は誰もいない状況のなかで一度は首相就任を打診されたのだが、これを断っている。では、今回はなぜ引き受けたのかと言えば、西園寺が山本内閣を全面的にバックアップすると約束したからではないか。
このあたりの「密約」についてはなんの史料も残っていないのだが、私はもう一つ密約があったと思う。それは首相になったら直ちに軍部大臣現役武官制を改め、予備役でも就任できる制度に変えることだ。現役でなければ陸軍や海軍首脳の命令に従う必要は無い。だから首相は予備役の軍人のなかから陸相海相を比較的自由に任命できる。
山本内閣は一九一三年(大正2)二月二十日にスタートしたのだが、わずか四か月後の六月十三日にこの改革を成し遂げているのである。この制度は、じつは海軍も陸軍と同じように「切り札」として使えるという点を見逃してはならない。政府が海軍の意向に逆らったときに、この制度があれば海相を出さないという形で内閣をつぶすことができる。そんな切り札をなぜ手放したかと言えば、西園寺が山本内閣を全面的にバックアップする。そのために政友会のメンバーも多数入閣させる。そうすれば国会対策も問題無い。ただし、軍部大臣現役武官制だけは直ちに改めてもらいたい、そういう密約があったとすれば、全部辻褄が合うわけで、これなら天皇の御命令に背いたことにもならない。
(1372回につづく)
※週刊ポスト2023年3月3日号