8月9日、長崎に原爆が投下された。私の被爆者健康手帳には「爆心地から1.5km」とあるがそれが正確かはわからない。父は全身焼けただれたまま家に戻り、玄関先でのたうち回って息絶えた。一番目の兄は行方不明のままだった。母と姉、二番目の兄、そして私は助かった。家は爆心地からみて山の裏側だったから助かったと聞く。爆心地に面した側の畑に行った父と、市内に行っていた一番目の兄はやられた。母は放射能の恐怖など知るよしもなく、私をおぶって西山を下り、長崎市内を探し回った。二番目の兄も一緒に探した。結局見つからず、仕方がないので工場近くの骨を拾って「兄」として持ち帰った。だから骨壷には誰の骨かわからない「一番目の兄」となった誰かの骨が入っている。
終戦後、母子家庭となった我が家は母が行商で私たちを養い、物心がつくと同時に二番目の兄(以下、兄)も私も長崎民友新聞の新聞配達を始めた。姉は「ロバのパン屋さん」をしていた。長崎民友新聞は現在の長崎新聞である。ロバのパン屋さんとは戦後ブームとなったパン屋のチェーン店およびその名を称した店のことである。戦後、いらなくなったロバや馬に台車を牽かせてパンを売っていたのが始まりと聞く。兄も姉も、中学生だったが学校そっちのけで働いた。私も小学生だったが働いた。そうでもしないと食べていけない、そういう時代だった。貧乏で修学旅行にも行けなかった。当時、修学旅行は希望制だった。
兄は勉強家だった。新聞配達の余り(残紙)を持って帰って隅々まで読み、貯めたお金で安い辞書を買った。それは角川書店の国語辞典で、いまも遺品として残っている。辞書を角川にした縁か、文庫の何冊かも角川文庫だった。兄は巻末の「角川文庫発刊に際して」の一文が好きだった。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した」という当時の社主、角川源義の名文である。「立派な人だ」と兄は言っていた。母も兄も天皇は憎まなかった。不思議とアメリカも憎まなかった。しかし東條英機は憎んでいた。「お父さんを殺した東條が憎い」は母の口癖だった。思想も事情もへったくれもなく、家族を原爆で亡くした、素朴な被害者感情であったように思う。
学びたかったのに高校に上がれず新聞配達員を続けていた兄は、やがておかしくなった。体調も悪く、わけのわからない言動も増えた。そのころ姉はすでに集団就職で出てしまい、母と私は戸惑うしかなかった。しばらくして長崎県警が「お前のところの息子が長崎本線で轢かれて死んだ」と知らせに来た。遺書もなく、自死か事故かはわからない。「東京に行きたい」「富士山が見たい」と言っていたので線路を歩いて行こうとしたのか、それもわからない。私は兄の事故が小さく載った新聞を、いつものように配った。
そして母もおかしくなった。彼女の体調はさらに悪く、加えて夫と息子二人を失ったショックが精神を蝕んだ。さらに不運は重なり、駅前で勝手に行商をするなと警察にとがめられ、商売ができなくなってしまった。それまでは何も言われなかったのに、世の中の決まりごとが改めて作られ始めていた。時代は昭和30年代に入り、東京オリンピックに立候補だ、国際連合に復帰するんだと、日本はとっくに前に向かって歩き出していた。私の家族だけが、いまだに原爆の只中に取り残されていた。同じころ、長崎の平和祈念像の除幕式があったことを覚えている。兄が熱心に口にしていた被爆者救済も「原爆医療法」として実現した。「これから100年は草木一本生えない」と聞いていたが、長崎の海も山も美しい。人間も自然も強いと思った。
しかし母は井戸に身を投げて、死んだ。