こうした面でも、作品の良し悪しと児童教育に適しているかがイコールでないことは確かだろう。しかし、そうした特定の年齢の教材として適不適だったものが、一部の為政者やその関係者にとっての適不適となり、焚書のごとく「なかったこと」になることは、5月からG7広島サミットを開催する被爆国、日本にとってそれこそ恥ずべきことのように思う。
決して筆者が被爆者の家族だから、当事者の子だからという話ではない。貧しい子どもたちのためにパンを盗んで19年間も投獄された『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャン、盗みに来たと勘違いして優しい狐を撃ち殺してしまった『ごんぎつね』の兵十と同様、身重で栄養失調ぎみの母親のために鯉を盗もうとするゲンの姿には、「泥棒は悪」という必罰や「無駄な行為」という冷笑では言い尽くせない人間主義が描かれている。
また今回の件は特定の年齢に限った現場への配慮だと理解するにしても、『はだしのゲン』がもし「なかったこと」にされるなら、それはこれまで挙げた数々の作品も「醜い」「過激」「残酷」と拡大解釈され、ゆくゆくは戦争作品(とくに日本の敗戦や、その責任にまつわる話)はもちろん、あらゆる表現媒体も「不都合」とされ、筆者の父のような実体験、いや一般市民の多くの「人間」としての恥ずかしさや卑しさ、ときにその背景にある優しさという過去すら「なかったこと」にされてしまうだろう。
美しい過去も醜い過去も、この先をよりよく生きるための財産である。不都合な過去もまた、懸命に生きようとした先人から受け継いだ、この国に生きる私たちの財産であることは忘れてはならない。むしろ今回の『はだしのゲン』問題は、それらをいま一度この国で問い直す、よい機会なのかもしれない。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員、出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。