まず事実関係を述べれば、シーメンス事件の関係者も「金剛・ビッカース事件」の関係者もほんの一部を除いて有罪となった。たとえば、松本中将は「謝礼の受け取り」を認めた。本人は「私利私欲では無く、将来海軍大臣に就任したときなどに備えて機密費として使うつもりだった」と述べ、実際に遊興費などには使った形跡は無いようだ。しかし、受け取った事実は認めたので収賄罪に問われ有罪となり、すべての位記・勲章を?奪され、免官のうえ海軍から追放され刑務所で服役した。
ちなみに四十万円とはどのくらいの金額かと言えば、物価の違いもあるので一概には言えないが、ちょうどこのころ生活に困っていた石川啄木が朝日新聞社に就職できて「これで妻子が養える」と喜んだ月給の額が「二十五円」だった。途方も無い金額であることがわかるだろう。
『金剛』など海軍艦艇の莫大な購入費用は、すべて税金である。国民にしてみれば、ロシアの三国干渉以降「臥薪嘗胆」して海軍に「献金」していたような感覚だろう。昭和に入ってからの戦争で使われた標語に「欲しがりません 勝つまでは」というのがあるが、まさに国民はそういう気分で重税に耐えてきた。それなのに、こともあろうに海軍はその血税から支払われた代金の一部をキックバックさせリベートとして受け取っていたというのだ。国民が激高し世論が沸騰するのも無理は無いとも言える。それなのに「海軍弁護人」はいったい、なにを「弁護」しようというのか?
〈シーメンス事件はとにかく、巡戦金剛の汚職事件はすでに時効になっていた謝礼を、汚職にすり替えたもので、その根源は国防兵力増強に対する陸海軍の主導権争いにからみ、長閥陸軍の大御所山縣有朋元帥が薩閥海軍の統領山本権兵衛大将の失脚を狙った陰謀の手段に利用された過程を解明された(以下略)〉
これは、前掲書の『史話・軍艦余録 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』に、著者の「畏友」にして「旧海軍の老兵」と自称する高木惣吉が寄せた序文(むしろ推薦文)の中にある文言である。つまり、この本の出版意義はここにあるということだ。
「賄賂」では無く「報酬」
高木惣吉とは誰か? 大日本帝国海軍史を少しでもかじった人間なら知らない人間はいない、というほどの人物である。
〈高木惣吉 たかぎそうきち
一八九三―一九七九
大正・昭和時代の海軍軍人で太平洋戦争の終戦に尽力した。熊本県球磨郡西瀬村(人吉市矢黒町)に明治二十六年(一八九三)十一月十日出生。農業の父鶴吉と母サヨの長男。小学校だけの学歴で上京し苦学して海軍兵学校に合格、大正四年(一九一五)十二月に卒業。海軍大学校を首席で卒業したあと昭和二年(一九二七)十二月から約二年間フランスに駐在した。同十二年から十七年にかけて海軍省官房調査課長または海軍大学校教官として民間の知識人を集めてブレイン=トラストを設け、思想・外交・政治を研究した。舞鶴鎮守府参謀長に転出して少将に進んだあと昭和十八年九月、東京にもどり翌年三月から海軍省教育局長。戦局の悪化に伴い十九年九月から海軍次官井上成美の密命により病気と称して終戦工作に従事し、海相米内光政を補佐した。自身の見聞・活動を記録した著書として『高木惣吉日記』『山本五十六と米内光政』『太平洋海戦史』『私観太平洋戦争』『高木海軍少将覚書』など多数ある。昭和五十四年七月二十七日神奈川県茅ヶ崎市で死去。八十五歳。墓は鎌倉市の東慶寺にある。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 項目執筆者野村実)
最近の研究では高木は一九四四年(昭和19)、戦争終結のために東條英機首相暗殺を計画したが未遂に終わったことも、あきらかにされている。ただこの計画については、成功していたら陸軍と海軍の対立が決定的となって収拾がつかなくなっただろう、との反省の弁も述べている。とにかく、小学校しか出ていないのに海兵を経て海大を首席で卒業するなど、大変な努力家で優秀な人間であることはわかるだろう。