たしかに本人の「好き嫌い」を問題にするなら「陸軍嫌いの海軍好き」だろうが、高木は陸軍だけでは無く海軍に対しても歯に衣を着せぬ批判を浴びせる人物だった。だからこそ井上成美や米内光政といった海軍の良識派にも深く信頼されたのだろう。その高木が高く評価する「陰謀の過程の解明」とは、いったいどんなことか? ここは前掲書で展開されている紀脩一郎の「弁論」を私がわかりやすく代弁しよう。
高木惣吉も言っているように、「シーメンス事件はとにかく、巡戦金剛の汚職事件」は時効だったのである。そもそも「謝礼」というのは当事者の松本和がビッカース社を海軍に紹介した労に対する謝礼であって、海軍にビッカース社を仲介人に選ぶように受託されその成功報酬として受け取った賄賂では無い。もし仮に賄賂だったとしても、現代で言う受託収賄罪については時効が成立していて立件できないはずだ。それなのに立件できたのは、検察当局が「受託収賄」の関係が現在も続いている、つまり犯罪が現在も継続進行中(これなら時効にはならない)という形を無理やりデッチ上げて有罪に持ち込んだからである。
では、「デッチ上げ」というのは具体的にどういうことかと言えば、受託収賄罪が成立するためには、賄賂を贈った側になんらかの「請託」があったと認めさせなければならない。これは前に紹介した昭和の「ロッキード事件」でも問題になったところだが、この場合だと当事者の三井物産側が「海軍がビッカース社を代理人に選ぶよう」に松本中将に「請託」し、その目的でカネを贈ったと認めさせなければならない。
金銭そのものの授受については三井物産側も松井中将も「あった」と認めているが、あくまで「単なる謝礼だった」というのが双方の主張だ。だから、その主張を崩さねばならない。ここで注意すべきは、三井物産側の審理は通常の裁判所だが、松本中将は軍法会議(軍事法廷)で裁かれていることだ。一括審理では無い。だから検察や裁判所がいちはやく三井物産側に賄賂の意識があったことを認めさせ、三井物産側を贈賄罪に問うことができれば、当然軍法会議もその結論は無視できず、松本中将に収賄罪を適用せざるを得なくなる。
ここで検察側が目をつけたのは、すでに現役を退き予備役であるため軍法会議では無く裁判所で裁きを受けることになっていた三井物産技術顧問の松尾鶴太郎だった。実際に三井物産から四十万円を受領し当時艦政本部長だった松本中将にカネを渡したのは、海軍OB(元・海軍造船総監)の松尾である。そこで検察は、松尾をまず詐欺取得罪で逮捕起訴した。金銭の授受が明確になった段階で、「松尾が、オレが松本中将に頼めば必ずビッカース社を代理人にできる。そのためにカネが必要だと三井物産に持ち掛け、カネを騙し取った」という罪状だった。だから詐欺取得罪、なのである。ところが、逮捕後に松尾はそれが贈賄であったと認めてしまった。なぜか?
戦前(昭和20年以前)は、予審という制度があった。「旧刑事訴訟法で認められていた制度。公訴提起後、被告事件を公判に付すべきか否かを決定し、あわせて公判で取り調べにくい証拠を収集保全する手続きで、裁判官の権限に属していた」(『デジタル大辞泉』)というものなのだが、この事件の予審担当だった潮恒太郎判事が「トリック」を使って松尾に贈賄を認めさせた、と紀脩一郎は主張する。それは、現代においてはまったく忘れ去られた軍人の「習性」を利用したものだった。
(文中敬称略。1375回につづく)
※週刊ポスト2023年3月31日号