力道山が父のもとへ「電撃訪問」
翌朝、いつものように海外に飛び立った敬子にとって、この日のフライトはいつものように気ままなものではなかった。結婚話が重くのしかかっていた。日航パーサー時代に、敬子ともフライトをともにした作家の安部譲二が、生前に残した証言がある。
「俺はリキさんとは日航に入る前から、一応顔見知りではあったんだけど、まさか日航の同僚の敬子さんと結婚話が持ち上がってるなんて思いもしなかった。敬子さんが悩んでいる様子も全然わからない。知る由もなかった。多分、誰にも言ってなかったんじゃないのかね」
敬子が日本を留守にしている間、ちょっとした事件が起きていた。力道山がアポイントも取らず、茅ケ崎にいる父の勝五郎のもとを訪ねたのだ。
「いやあ、どうも、すみません」
突然現れた国民的スターに、さすがの茅ケ崎署長も言葉を失ったはずだ。力道山は「ここは攻め時」とばかりに言葉を継いだという。
「腰がお悪いとお聞きしました。いい湿布があるんです。選手にも使わせてるんですが、凄くよく効くんです。すぐに治りますから」
そう言うと、大胆にも官舎にまで上がり込んで、勝五郎の腰のマッサージまで始めた。
このときの力道山のアクションだが、彼のこれまでの行動パターンを見ると、わからないでもない。力士を廃業したときは新田建設社長の新田新作を動かし、プロレスを始めるときは興行師の永田貞雄を動かし、大阪に拠点をもうけるときは千土地興行社長の松尾国三を動かし、リキエンタープライズを立ち上げるときは外車のトップセールスマンだった吉村義雄を動かし、ボクシング界に参入するときは毎日新聞記者の伊集院浩を動かしている。「人は人によって動かされる」は彼自身の人生哲学であり、このときも、おそらくそうだったはずだ。
「付き合うのはいいけど結婚は駄目」と聞いたことで、煮え切らない敬子の態度の原因が父親にあると悟った力道山は、一気に勝負を賭けたのである。
1週間後、フライトから戻った敬子は、勝五郎からそのことを聞かされて驚いた。しかし、最も驚いたのは「あいつは、いいやつだよな」と勝五郎自身が軟化していたことである。
週刊誌記者に明かしていた“本音”
今のようにインターネットもSNSもないこの時代は、海外で会う分には何の気兼ねもいらない。ある日、力道山は訊いた。
「近々、ロスに行くんですが、行かれる予定はありますか」
「ええ、再来週がロサンゼルス便です」
「ああ、ちょうどよかった。是非、向こうで会いましょう」