伝説の場外弾の打球は「どこまで飛んだか見ていなかった」
そんなふうに自身の現役当時を振り返ったうえで、現役選手たちについての考えをこう続けるのだった。
「山田君はスチールもできるし、球場の事情もある(狭い神宮球場が本拠地)。前後にはゴッツい外国人がいる。西鉄も似た球団だったが、山田君はケガにも強いし、ヤクルトなら地の利を活かして(これからも)トリプルスリーを狙ったらいいんじゃないかと思います。柳田君は体が大きいので、盗塁でクロスプレーになればケガもある。トリプルスリーは1回取れば十分だよ。ドンと構えて三冠王を狙えばいい。パ・リーグには凄いライバルが多いが、ホームラン王になるだけのものは持っていると思う。時代に合ったことをする。それが野球なんです。なんでもかんでも比較しちゃだめだよ」
高校時代から「怪童」と呼ばれ、西鉄時代の平和台球場では、投手の肩口を抜けたライナーがバックスクリーンを越える160メートルの場外弾となったことが有名だ。この逸話について聞いた時は、こんな話をしてくれた。
「平和台は客席とグラウンドがぐんと近く、フェンスも低かった。そのため何かあればすぐにファンがグラウンドになだれ込んで来た。勝っても負けてもね。弱くても球場に足を運んでくれるファンと選手が一体となった球場だったね。ボクがバックスクリーンを越える160メートル弾を打ったとか言われとるが、ライナーだったので下を向いて全力疾走していた。だからボールの行方はわからない。本人も見ていないんです。どこまで飛んだかいまだにボクは知らないよ。
他人よりも(体は)小さいけど、長くて重いバットを持ち、相手のボールとジャストミートしていいポイントで打てたということに尽きる。好投手でも逆らわずに打てると、ボールは飛んで行くということ。たまたま飛んだんでしょう。
当時はボールが飛ばないから(重要なのは))バットコントロールだった。外(のボール)はライト、センターに逆らわずに打ち、レフトにはファールにならないような(打球を飛ばす)広角打法が理想形だった。それをボクは2年目に、引き付けて引っ張るという打法を死にもの狂いでやった結果、ボールが飛ぶようになったんです。そして、長くて重いバットを使うなどして、手首を壊すほどバットを振った」
自身のキャリアに基づく打撃理論を話し、「自分では逆らわずに打つ好打者であったと思っているんです。あれ(平和台球場の場外弾)は技の一発。馬力でホームランを打ったとはあまり言われたくないんですよ」と苦笑いしていた。