稲尾和久一覧

【稲尾和久】に関するニュースを集めたページです。

「神様、仏様、稲尾様」と称賛された稲尾和久(写真/共同通信社)
佐々木朗希より“異次元”の活躍? 1958年の稲尾和久、後半戦だけで17勝の絶対的エース
 完全試合やノーヒットノーランが相次ぐ今季は「投高打低」と言われる。“令和の怪物”こと、プロ3年目・佐々木朗希の快投などが観客を興奮させているのはたしかだろう。ただ、中6日で、球数は100球まで。かつてのプロ野球の「絶対的エース」の活躍は、今では考えられないものだった。(文中敬称略)【全3回の第1回】 昨季はチームのリーグ優勝に貢献し、沢村賞を獲得したオリックス・山本由伸。その成績は26登板(193回2/3)、18勝5敗、206奪三振、防御率1.39という数字で、“現役最強投手”の呼び声も高い。 今季はロッテ・佐々木朗希も“異次元の活躍”と称賛される。完全試合を達成すると、中6日で登板した翌週も8回まで完全投球を見せた。山本も佐々木も、たしかにすごい。しかし、1950年代や1960年代に活躍した絶対的エースと比べると、どうだろうか。 代表例が「1958年の稲尾和久」だ。1958年に開催された西鉄vs巨人の日本シリーズ。西鉄のエース・稲尾は第1戦、第3戦に先発するも敗れ、チームも3連敗。しかし、ここから稲尾が獅子奮迅の活躍を見せる。 4戦目は9回を投げ切って西鉄が6対4で勝利。第5戦も0対3の4回からリリーフし、9回に西鉄が追いつくと、延長10回には稲尾自身の本塁打でサヨナラ勝ちを収める。第6戦は先発して9回3安打完封。最終戦も稲尾が先発すると、長嶋茂雄のランニングホームランの1点に抑え、3連敗からの4連勝に。3年連続の日本一となった。7戦の計62イニングのうち、稲尾は実に47イニングに登板したのである。「この年に『神様、仏様、稲尾様』という言葉が生まれた。オールスター前に首位・南海に10.5ゲーム差をつけられていた西鉄が、逆転でリーグ優勝した時に誕生したフレーズです。オールスター以降、西鉄が優勝するまでの48試合で稲尾は31試合登板し、17勝1敗。ダブルヘッダーに連勝すれば優勝という局面では、2試合とも登板し、胴上げ投手となっています」(スポーツ紙編集委員) 昨年の山本の登板イニング数は200回に届いていないが、この年の稲尾は373回に及ぶ。翌1959年や1961年は400イニング以上を投げた。「稲尾は通算756試合に投げたうち、117試合が連投だった。凄まじい数字です。プロ9年目(1964年)は酷使がたたって1勝もできず、以降はリリーフに転向したが、満足のいく結果は残せず1969年に引退した。プロ通算14年で276勝。“太く短い”とも言うべき現役生活でした」(同前) この時代は各球団の絶対的エースが投げまくっていた。1958年は、セで国鉄・金田正一が31勝14敗(登板56試合)、パは稲尾が33勝10敗(同72試合)で最多勝となった。阪急のエースとして同年に23勝13敗(同45試合)の成績を残し、後に通算350勝を積み上げた米田哲也はこう振り返る。「並み居るエースのなかでも、やはりサイちゃん(=稲尾)がナンバーワンだろうね。サイちゃんが西鉄に入団したら、ピッチャーが1人加入しただけなのに優勝できるチームになってしまった。まさにエースと呼ぶに相応しい。 当時の阪急は貧打で弱小でしたから、サイちゃんは阪急とのダブルヘッダーは“1日2勝のチャンスだ”と思ってリリーフと先発で2試合とも投げてきたりしたんです。サイちゃんと投げ合いたくないからと、阪急には西鉄戦前になると体調を崩すピッチャーがゴロゴロいてね。お鉢が回ってくるのが私だった。だから西鉄との対戦で1勝6敗というシーズンもあって、その1勝も私のサヨナラホームランで勝った試合だった(苦笑)」 米田は「当時、エースと呼ばれるピッチャーは投げるチャンスをもらえるならいつでもマウンドに上がった」と振り返る。「南海の杉さん(杉浦忠)もアンダーハンドからの速いストレートで打者をきりきり舞いさせていた。新人だった1958年から27勝12敗。2年目はもっとすごくて38勝4敗ですよ。驚異的な勝率で南海を優勝させました。ただ、全盛期は短かったですね」 南海・杉浦はプロ入りから4年連続20勝以上をあげたが、7年目を最後に2ケタの勝ち星をあげることはなかった。米田は当時のピッチャーの練習をこう表現する。「他人に負けたくないので、ただただ投げ込んだだけ。今の時代のようなトレーナーもいなかった。キャンプでの貯金をどうやって1年間もたせるか。夏場はみんなヘバってくるので、そこで暑さに負けないようにやっていた。とにかく“暑い”とは言わない。口にすると気持ちが沈みますから」 それは「自分に対して暗示を掛ける作業だった」と米田は続ける。「キャンプでは1日300球を2~3回やり、他の日も常に150球は投げていた。この自信が大きいんです。300球を投げていると、完投での135球は半分ですからね。楽に投げられた」 近年は、先発投手が責任を果たした“合格ライン”としてクオリティスタート(6回3自責点以下)という概念も定着してきたが、「昔の阪急は2点取ってもらったらピッチャーが野手陣にお辞儀をするような貧打チーム。先発が3点も取られたら全部負けていますよ」と米田は豪快に笑った。(第2回へ続く)※週刊ポスト2022年6月10・17日号
2022.06.04 11:00
週刊ポスト
「週刊ポスト」本日発売! “反安倍”財務省エリート逮捕の裏ほか
「週刊ポスト」本日発売! “反安倍”財務省エリート逮捕の裏ほか
 5月30日発売の「週刊ポスト」は、政治、経済、社会、生活にまで影響が及んできた「戦争の時代」の真相を総力リポートする合併特大号。世界的なインフレや品不足、流通停滞によって日本企業の業績は様変わりし、健康を支える常備薬まで手に入りにくくなっている。参院選を控えた政府・与党では内紛が勃発し、ついに元首相の天敵だったエリート官僚が逮捕される事態まで引き起こした。今週の見どころ読みどころ◆5・22震度5弱を的中させたMEGA地震予測が警告する「次の巨大地震」いわき市で震度5弱を記録した5月22日の地震を4日前に「場所、日時、マグニチュード」までピタリと的中させたのが、東大名誉教授が開発したMEGA地震予測だ。すでに本誌で何度も的中を目の当たりにしてきた読者からも、その正確さに驚きの声が上がった。そして今回、新たに中部地方に危険な兆候が観測された――。◆暴行で逮捕された財務省「次官候補」はアベノミクス潰しの急先鋒だった5月20日に電車内で暴力を振るって逮捕された財務省の小野平八郎・総括審議官は、事務次官コースを順調に歩んできたエリート中のエリートだった。しかし、これですべてパア。実は泥酔して暴挙に及んだ日の昼間、岸田首相の財政再建路線に反発する安倍元首相支持派と激しく対立しており、疲労困憊のまま“ヤケ酒”を煽っていたとみられている。◆「CAにしてやる」就職詐欺で性奴隷にされた上智大生の慟哭大阪府警に逮捕された男に「大手航空会社に就職させてやる」と騙され、カネを巻き上げられたうえに繰り返し性交渉の相手をさせられた上智大生(当時)が涙ながらに被害の全容を告白した。自分はその会社の幹部だと偽り、「拒むことは許されない」と脅して、避妊もせずに何度も暴行に及んだという。◆上島竜平を診察した脳神経外科医が悔やむ「首こり性うつ」の兆候かつてテレビ番組の企画で上島竜平を診察した東京脳神経センター理事長の松井孝嘉氏は、「あの時に治療を勧めていれば……」と悔やんでいる。松井氏は当時、上島の「首こり」を指摘していたが、実は同氏の研究によって、首のこりがうつ症状を誘発することが明らかになってきたという。◆朝ドラ席巻「上白石姉妹」を陰キャから陽キャに変えたメキシコ移住いまや「国民的姉妹」となった上白石萌音と上白石萌歌だが、子供の頃はどちらかといえば「陰キャ」だったという。姉が小3、妹が小1の時に父の仕事でメキシコに渡り、3年後に帰国すると、周囲は「あなたたち、本当に変わったね!」と驚愕したという。ともに教師だった両親に育てられた二人の知られざる底力が明らかに。◆2022佐々木朗希×1958稲尾和久×1961権藤博「本当にすごい」のは誰だ球界はまれに見る「投高打低」が続いているが、今年の佐々木をしのぐ強烈な印象と成績を残した剛腕もかつてはいた。時代が違う、と片づけるのは簡単だが、人間どこまでできるのか見てみたいのがファン心理でもある。1958年に日本シリーズ5連投など驚異の活躍で「神様、仏様、稲尾様」と言われた稲尾和久、ルーキーイヤーの1961年に69試合に登板(35勝19敗)して「権藤、権藤、雨、権藤」の言葉を生んだ権藤博はどれくらいすごかったか。◆すき家が吉野家の5倍稼ぐ秘密、くら寿司がスシロー猛追の一手ほかコロナ禍はすべての産業に大きな影響を与えたが、同業のライバル同士で明暗がはっきりしたのが今年の決算発表の特徴だった。表題の2組のほか、ユニクロvs無印良品、ソニーvs任天堂、中外製薬vs塩野義製薬、近鉄vs東急、丸井vs三菱伊勢丹の明暗を分けた企業戦略の違いを分析した。◆罰ゲームも死体シーンもお色気もダメ出し「BPO」はテレビの敵なのかダウンタウン松本人志は上島竜平の追悼コーナーで、「ダチョウ倶楽部の芸がテレビでやりづらくなっている」と問題提起したうえで、「BPOさん、どうお考えですかね? と思いますね」と、BPO(放送倫理・番組向上機構)に矛先を向けた。捏造や政治的偏重に目を光らせるのはいいとしても、BPOがバラエティ番組の演出にまで口を出すようになったことは、テレビ文化にとっていいことなのか、やりすぎなのか。◆いつの間にか日本の薬は「あれも、これも」中国産になっていた!医療費抑制のため、日本政府はジェネリック医薬品を強力に推奨している。いまや日本人が飲む薬の8割がジェネリックだが、その結果、より安い原薬(薬の材料)を求めて中国からの輸入が増えている。ところが、コロナ禍で中国の原薬が品薄になり、日本では薬の需給が逼迫する事態が起きた。さらに、生産管理がずさんな中国企業では、原薬に発がん性物質が混入するなどの事件も。中国に頼る日本の薬は本当に大丈夫なのか検証する。◆江本孟紀×弘兼健氏×大和田伸也「団塊47年組、後期高齢者になるけれど」今年から団塊の世代が後期高齢者になり始めた。その第一世代の3人が、競争と貧困の少年時代、経済成長とバブルの経験、そして老年を迎えて考える仕事と恋愛など、世代ならではのテーマで語り合った。「ONも手塚治虫も長谷川一夫も知らない世代」に言っておきたいこととは?◆フジテレビ元アナウンサー・久代萌美が初グラビアに挑戦フジテレビを退社して吉本興業入りした久代アナが初グラビアを披露した。知的で親しみやすいキャラで人気を博したが、「ひと通り局アナ仕事をやりきった」とフリーに転身。今度は「自分を売り込む」立場になり、大人の魅力たっぷりのグラビアでデビュー!◆<袋とじ>1日1分見るだけで「ボケない」写真12日間ドリルマサチューセッツ工科大学の脳科学研究から生まれた脳を鍛える写真をお届け。風景や人物など様々な写真をじっくり見てから質問に答えるだけ。実験では96.4%がトレーニング効果を実感したという驚異のドリルをぜひ体験してください。※全国の書店、コンビニで絶賛発売中!
2022.05.30 07:00
NEWSポストセブン
爆笑問題、高田文夫が絶賛 山田雅人「絡みにくい芸」の真髄
爆笑問題、高田文夫が絶賛 山田雅人「絡みにくい芸」の真髄
「日本一、絡みづらい芸人がこの人ですよ!」──さる10月9日金曜の夜、お笑いライブ『タイタンライブ』および『爆笑問題withタイタンシネマライブ』10月公演(東京・時事通信ホール)のエンディングトークで、爆笑問題の太田光が笑いながらゲストを紹介した。それは山田雅人。上方笑芸界のご意見番、上岡龍太郎をして「こんなアホな芸人はおらん、最高ですわ」と言わしめた男である。 山田は2009年から、長嶋茂雄と稲尾和久の名勝負、永六輔や藤山寛美などの人物伝をひとり語りするライブを演じ続けている。来る10月23日に上演する彼の最新作が「太田光物語」だ。その公演には太田本人も参加するとあって、爆笑問題のライブのゲストに招かれたのだ。 その夜のライブは新型コロナに感染、療養していた田中裕二の復帰漫才披露の場でもあった。いつもはどんなゲストに対しても無理くり仕掛けてくるアグレッシヴな太田光が山田に呑まれてしまう。山田「今夜は太田さんと会えて、身も心も震えっぱなしなんです。僕にとって、僕の芸にとって、太田さんはお父さんです。光父さん!」 トーク冒頭から山田の話芸に馴染みのない観客のみならず、太田も顔をしわくちゃにしたまま絶句状態が続く。太田は山田にゾッコンなのだ。太田の機能不全を傍らに見て、急きょネタをキャッチして山田に投げ返したのは復帰したばかりの田中だった。山田が得意なひとり語りのネタはスポーツ。そのことに田中が触れるや、「絡みづらい芸」が炸裂する。田中「山田さんは僕も好きな競馬も語りの芸になさってるんですよね?」山田「名馬テンポイント、悲運の貴公子テンポイント。時は昭和53年、1月22日。場所は雪積もる京都競馬場、第25回日本経済新春杯。前年の第22回有馬記念にて2大ライバル、トウショウボーイ、グリーングラスをしりぞけ……」田中「はい、ストップ、ストップ! いいですか。じゃあ、話を戻しますよ!」 この夜、田中がいなければ、独自の話芸を繰り出す山田が太田をテクニカルノックアウトしていただろう。日本お笑い界の雄、太田光が笑いっぱなしになる山田雅人の芸とは? 山田本人に直撃した。──山田さんを紹介する際、爆笑問題のお二人が「日本一絡みづらい芸人」と言ってましたが?山田「ホントね、爆笑問題の太田さん、田中さん、面白いですよね。あの二人の脳に住みたいくらいなんです。どういう風に世界が見えてるんでしょう? 住みたいなあ!」──えーっと、絡みづらい芸人と呼ばれることに関して山田さんご本人としてはどう……。山田「あー、僕ね、普通にこうなんです。爆笑問題さんがとても面白い、面白いなら褒めるのが当たり前で。年下でも、僕が尊敬できる人なら、その気持ちを表すという。で、お客さんは笑うんですけど、僕としてはいたって通常運転なんです。絡みづらいというのは僕が自分の話に没頭するからじゃないかな」──好きな話になると、スイッチがすぐ入る。山田「そうなんです。僕が好きな話題に差し掛かると、ついつい周囲を忘れて語ってしまって。野球で長嶋茂雄さんのことになれば、昭和33年、既に六大学野球でスターであった長嶋茂雄が読売巨人軍へ入団。この年の日本シリーズ、巨人対西鉄は歴史的対決となった。空前の人気を集めたルーキー長嶋を迎え撃つのは、入団3年目にして鉄腕の名をほしいままにしていたエース稲尾和久! わずか3年で89勝という偉業を達成していた稲尾。長嶋と初めてまみえた後楽園球場の1回戦、1回裏二死満塁の場面では……」──えーっと、あの山田さん、山田さん!山田「あ、は、はい!」──ガチでワールドへ没入されるんですね。山田「そうなんです、この癖が『絡みづらい芸』と言われるところなんですかね(笑)。これを聞いてくださって、ぜひ観客の前で演るべきだと仰ったのが高田文夫先生で。家族からも『演れ』と言われてたんですが、どうしてもこれを話芸とは思えずに自信がなくって。でも、高田先生に後押しされ、2009年に下北沢の劇場で始めましてね」──客を前にして演じてみてどうでした?山田「不思議なことに喜んでくれたんです。嬉しかったですね、自分の拙い思い入れの喋りを楽しんでもらえたんですから。それから競馬のハイセイコー、オグリキャップ。スポーツでは『江夏の21球』や『甲子園バックスクリーン3連発』。人物伝では有森裕子さんや永六輔さん、藤山寛美先生など題材に十年続けてきまして。これは全て、高田先生が下さった太鼓判のお陰なんです」──語りは台本を書かれるんですか。山田「関係者やご本人へ取材を繰り返しまして、原稿用紙で250枚以上は書きます。それを刈り込んで一時間ものにしていく」──ひとりの観客として山田さんの語り芸を聞いて、山田さんがホントにファン目線で語るんだなあと感動しました。山田「僕が演る語りは、とにかく自分が惚れ込んだ人や事件です。寛美先生に対しては、僕、若い頃に松竹新喜劇のオーディションを受けたくらい憧れてましたから」──そして今度は『太田光物語』に挑む。山田「去年、『藤山寛美物語』を公演した後、高田先生が『次は江戸の笑いを引っ張っていく芸人の話を作れ』と仰った。その芸人さんは誰ですかと問うと、すぐ『太田光だ』とお答えがありましてね。もうそこからは一心不乱に取材の日々でした。太田光さんの生き方を通して、現代の喜劇人の生き方、考え方を学べましたねえ!」──山田さんが演じる「かたりの世界」のユニークさは、舞台に題材となった御本人が登場するというところですね。山田「それを僕はストップモーションと呼んでるんですがね。御本人が来て『そのくだりは違う』とか指摘されるのってスリリングなんです。当事者の視点が入ることで世界がひろがるというか。単純に僕が御本人の語りが大好き、生本番のハプニングを楽しみにしてるところが大きいんですけど」──今度は太田さん以外に高田先生、松村邦洋さんもお迎えしてクロストークが実現する。山田「どうなるんでしょうね! 太田さんだけでも凄いのに。もう、僕は寝ても覚めても太田光という人の世界に住んでる状態ですから、どんなことがあってもいいと覚悟してるんです。太田さんを語る僕が先生方に丸裸にされるかもしれないですけど、そんな自分を見てみたい気もして。幸せなんです!」 笑いのご意見番・高田文夫、トップ芸人・太田光を魅了する山田雅人の「かたりの世界」。10月23日は、日本の笑芸界に新しい何かが起こるか。◆取材・文/岸川真(作家)
2020.10.21 16:00
NEWSポストセブン
1980年の巨人投手陣を牽引した江川卓(左)と西本聖の両エース(時事通信フォト)
1980年代の巨人投手陣を牽引した江川卓と西本聖の凄さ
 緊急事態宣言の全国的な解除を受け、2020年のプロ野球の開幕が6月19日に決定した。2020年代のプロ野球の幕開けであり、令和になってから最初の開幕となる。 1950年の2リーグ分裂後、プロ野球界を引っ張ってきたのは読売ジャイアンツだった。年代別の優勝回数を見てみると、1950年代は8回、1960年代は7回、1970年代は6回、セ・リーグを制覇している。1955年から5連覇、1965年から9連覇を成し遂げ、巨人は「球界の盟主」と呼ばれてきた。 1965年にドラフト会議が始まり、各球団の戦力が徐々に均衡。長嶋茂雄が引退し、V9戦士に衰えも見え始めた1975年、巨人は球団初の最下位に転落した。1980年にはミスター・ジャイアンツの長嶋監督が退任し、世界のホームラン王である王貞治も引退。V9のイメージが色濃く残るプレッシャーの中、1980年代のチームを牽引したのは江川卓と西本聖の両投手だった。 1974年オフにドラフト外で松山商業から入団した西本は3年目の1977年に8勝4セーブを挙げ、頭角を現す。翌年オフ、江川卓が『空白の1日』を利用して巨人への入団を試みるが、ドラフト会議で阪神が1位指名。金子鋭コミッショナーの『強い要望』が出され、1979年1月31日に江川は小林繁との交換トレードで、阪神から巨人へ。開幕から約2か月の謹慎を経て6月2日にデビューして9勝を挙げる。 西本はこの年に初めて規定投球回数に達し、リーグ2位の防御率2.76をマーク。3位は2.80の江川だった。野球担当記者が述懐する。「オフに地獄の伊東キャンプが行なわれ、2人とも長嶋監督に鍛えられた。1980年からの8年間、江川と西本が交互に開幕投手を務めており、1980年代の巨人投手陣は2人を軸に回っていた」(以下同) 1980年から6年連続で江川と西本の2人が2ケタ勝利を挙げている(※江川は1987年まで8年連続)。1981年は江川20勝、西本18勝で、チームの73勝の半分以上である38勝を記録。この年、チームの投球回数の4割以上を2人で占め、巨人はV9の1973年以来、8年ぶりの日本一に輝いた。「ドラフト外の西本は、入団当初は同期で1位の定岡正二にライバル心を燃やした。先発の一角に食い込んで定岡を抜いたと認められた頃に、江川が入団した。西本はエリートコースを歩んできた投手に対して、反骨心をむき出しにして、自分を高めていくタイプの投手でした」 西本はシーズンでは江川の勝ち星を上回ることはできなかったが、日本シリーズでは1981年に2勝(2完投1完封)でMVP、1983年も2勝(2完投1完封)で敢闘賞を受賞。江川が開幕投手を務めた年は3位、2位、3位、2位に終わったが、西本が開幕投手を努めた年は優勝、優勝、3位、優勝という結果に。プロ野球ファンの間では、江川は勝負弱く、西本は勝負強いというイメージも出来上がった。 巨人が江川と西本を擁した1980年代、広島は“投手王国”と呼ばれ、北別府学、大野豊、川口和久、山根和夫などの好投手がいた。この10年間で、北別府は137勝を挙げており、両リーグを通じて勝ち星トップ(2位は江川と西本の126勝)。2ケタ勝利の回数は北別府9回、大野、川口5回、山根4回だった。ただし、チーム内の2人で30勝以上を挙げたのは1982年の北別府20勝、津田恒美11勝、1986年の北別府18勝、川口12勝(金石昭人も12勝)の2年に留まっている。「チーム内に確実に勝ち星を計算できる投手が2人以上、長年にわたって存在することはほとんどない。だが、江川と西本は1980年から5年連続で、2人で30勝以上を挙げている。しかも、1980年の西本の14勝を除いて、全て15勝以上。 当時はV9や昭和30年代の野球と比較されて、そこまで評価されなかった印象があります。1988年まで元号は昭和でしたし、まだまだ昔の野球のほうが凄かったという認識があり、先発は毎試合完投、シーズン20勝して初めてエースという風潮もあった。特に江川はアマチュア時代の実績や入団経緯もあったため、400勝投手の金田正一やシーズン42勝の記録を持つ稲尾和久などを引き合いに出され、損をしている面もあると思います」 現役選手で、昨シーズンまで連続2ケタ勝利を挙げているのは千賀滉大(ソフトバンク)の4年が最長。続いて、菅野智之(巨人)と大瀬良大地(広島)の3年になる。一昨年まで6年連続2ケタ勝利の則本昂大(楽天)も、昨年は5勝に留まった。「則本の6年連続のうち、15勝は2回です。現在メジャーで活躍している選手のNPB時代の連続2ケタ勝利を見ると、日本ハムのダルビッシュ有は6年(15勝以上4回)、楽天の田中将大は5年(15勝以上3回)、広島の前田健太は6年(15勝3回)、日本ハムの大谷翔平は3年(15勝1回)、西武の菊池雄星は3年(15勝以上1回)です。大谷と菊池を除いた3人はメジャーでも2ケタ勝っていますし、日本にいれば記録をもっと伸ばしたでしょう。こうして振り返ると、今のメジャー投手と同じくらい、江川と西本は凄かった。その2人が同じチームにいたことが奇跡でした」 エースが2人いたことで、1980年代の巨人は安定した強さを見せた。10年間で優勝4回はリーグ最多。全ての年でAクラスだった。2リーグ分裂後、巨人が1度もBクラスに落ちなかったのは1950年代と1980年代だけ。時代の狭間で、切磋琢磨した江川卓と西本聖はジャイアンツの歴史に名を残した。2020年代、巨人に2人のようなライバル関係で競り合う投手は出てくるか。
2020.05.28 16:00
NEWSポストセブン
投手としてだけでなく、打者としても活躍した関根潤三さん(写真:時事通信フォト)
近鉄パールス消滅の危機を救った関根潤三さんの打者転向
 戦後の混乱期にプロ野球選手となり、近鉄で投手、打者として活躍した関根潤三さんが4月9日、老衰のため逝去した。93歳だった。 大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)以前の“元祖・二刀流”としても知られる関根さんは1950年、近鉄パールスに入団。2リーグに分裂した同年、セ・リーグは8球団、パ・リーグは7球団でスタートした。1951年2月、セの西日本パイレーツがパの西鉄に吸収され、セも7球団に。翌々年2月には松竹ロビンスと大洋ホエールズが合併し、セ・リーグは6球団制になった。一方のパ・リーグは拡大路線で人気アップを画策し、1953年12月に新球団として高橋ユニオンズが誕生した。野球担当記者が話す。「パ・リーグは球団増のため、戦力差が如実に現われました。7球団制の1953年は優勝・南海と最下位・近鉄の差が22ゲームでしたが、8球団制になった1954年は優勝・西鉄と最下位・大映の差が46ゲーム、翌年は優勝・南海と最下位・トンボの差が57ゲーム、翌々年は優勝・西鉄と最下位・高橋の差が45.5ゲームと格差は開き、いわゆる消化試合が激増。1試合の平均観客動員数は7球団制の1953年には8275人でしたが、8球団制になってから徐々に落ち込み、1956年には4950人にまで減少。セ・リーグの半分以下になっていました」(以下同) 1957年2月のオーナー会議で、球団数削減案が飛び出る。3年前、新規球団として迎え入れられた高橋ユニオンズがその対象となり、キャンプ中の2月25日、大映スターズとの合併が決まってしまう。これによって、大映は『大映ユニオンズ』と球団名を変更した。しかし、高橋の選手は各球団に散らばっており、合併とは名ばかりの解散、消滅だった。新規参入も削減も、大映のオーナーである永田雅一氏を中心に話は進められており、彼はパ・リーグ7球団ではなく6球団にしたい意向を持っていた。「最近でいえば、巨人のオーナーを務めた渡邉恒雄氏のような存在でした。その永田氏が様々な案を出すうちの1つに、1957年シーズンの最下位チームを合併させる案があった。2リーグ分裂と同時に誕生した新興球団である近鉄は前年までの7年間で、Aクラスは1度だけ。最下位を4度も記録しており、お荷物球団と揶揄されることもありました。近鉄を含め、Bクラス常連チームの尻に火がついたことは言うまでもありません」 8球団制の前年、Bクラスは5位・近鉄、6位・東映、7位・大映、8位・高橋だった。Aクラスの4位・毎日と5位・近鉄は16ゲーム離れており、上位と下位の差は明らかだった。「この年、30歳の関根さんは4月3日、開幕5戦目の西鉄戦に先発するも、5回途中でノックアウトされます。すると、芥田武夫監督に自ら打者転向を申し入れ、2試合後の阪急戦から5番・ライトで先発出場。いきなり猛打賞、翌日は2安打、翌々日にまた猛打賞と打ちまくり、シーズンを通して主に3番を任され、リーグ9位の打率2割8分4厘を残しました」 今と比べて飛ばないボールが使用されていた当時、圧倒的に打者が不利だった。この年、3割バッターは6人しかおらず、野村克也が30本でホームラン王に。大下弘や中西太、豊田泰光らを擁した西鉄でさえ、132試合で94本塁打、チーム打率2割5分5厘だった。 それに引き換え、『神様、仏様、稲尾様』と呼ばれた全盛期の稲尾和久が防御率1.37を記録したこともあり、西鉄のチーム防御率は2.15と驚異的な低さだった。7球団中5球団のチーム防御率が2点台という『投高打低』の時代だ。ちなみに、2019年のパ・リーグで防御率1位はソフトバンクの3.63であり、この数字は1957年の防御率最下位の大映と同じである。「この年、近鉄のチーム打率は2割2分5厘と低迷。そのため、関根さんの2割8分4厘は大きな価値がありました。前年もパ・リーグで3割打者は5人しかおらず、『投高打低』が明らかだったのに、関根さんが打者転向を決断したことに驚かされます。当時は20勝が一流投手の条件と考えられており、そこに届かないからと投手に限界を感じたと生前、話しています。 しかし、前年は9勝、2年前は14勝、3年前は16勝を挙げており、普通はスパッと切り替えられないでしょう。ましてキャンプ、オープン戦は投手として調整を続けたわけで、開幕後にすぐ方向転換できるメンタルも凄い。もし関根さんが投手にこだわっていたら、この年の近鉄はクリーンアップの一角を欠くことになりますから、最下位になった可能性も十分にある。そうなったら、1957年限りで近鉄が消滅していたかもしれません」 結果的に、この年最下位に沈んだ大毎ユニオンズが毎日オリオンズと合併。翌年から『大毎オリオンズ』となり、パ・リーグも6球団制となった。もし1957年に関根潤三が打者に転向しなかったら――。1人の男の決断が、プロ野球の歴史を大きく変えていた。
2020.04.13 16:00
NEWSポストセブン
金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
 長嶋茂雄や松坂大輔の鮮烈なデビューが印象に残っている人も多いかもしれないが、球史を紐解けば、1年目から大活躍した選手は少なくない。ここでは10人のスター選手たちのルーキーイヤーの卓越した成績を紹介しよう。35勝や22勝を挙げた選手までいるのだ。◆金田正一(1950年プロ入り) 1年目成績 登板試合:30 勝利:8 敗北:12 防御率:3.94 奪三振:143 高校を中退してシーズン途中で国鉄に入団。8月23日に初登板し、2か月足らずで8勝を挙げた。実質的な1年目となった翌年は、全107試合中44試合に先発し、22勝21敗の成績を残した。9月5日の大阪タイガース戦では史上最年少でノーヒットノーランを達成した。◆ダルビッシュ有(2005年プロ入り) 1年目成績 登板試合:14 勝利:5 敗北:5 防御率:3.53 奪三振:52 東北高時代、春夏4回出場(通算7勝2敗)。ドラフト1位で日本ハム入団。自主トレで膝を痛めて二軍スタートだったが、キャンプ中にパチンコ店での喫煙を写真週刊誌に報じられ無期限の謹慎となった。6月に昇格し、初先発で初勝利。ローテーション入りして5勝。◆尾崎行雄(1962年プロ入り) 1年目成績 登板試合:49 勝利:20 敗北:9 防御率:2.42 奪三振:196 浪商2年時に夏の甲子園で優勝投手となり、秋季大会に優勝してセンバツ出場権を置き土産に中退。尾崎家に各球団のスカウトが訪れる争奪戦の末、17歳で東映に入団した。17歳10か月のオールスター出場、18歳での新人王は今も破られていない最年少記録となっている。◆木田勇(1980年プロ入り) 1年目成績 登板試合:40 勝利:22 敗北:8 防御率:2.28 奪三振:225 1978年のドラフトで広島の1位指名を拒否し、翌年に日本ハムに入団。大小2種類のカーブとパームボールで三振の山を築いた。1試合16奪三振は野茂英雄に破られるまでルーキーの最多記録で、1シーズン毎回奪三振3回は史上唯一の新人記録となっている。◆原辰徳(1981年プロ入り) 1年目成績 出場試合:125 安打:126 打率:.268 本塁打:22 打点:67 1年目から4番候補として大切に育てられた。例えば巨人寮では池の葉っぱの掃除係を担当したが、これは歴代のエリート選手の中でも最も負担が軽い仕事だった。1年目から「美味しさホームラン」のセリフで明治プリンのCMに出演するなど人気もピカイチ。22本塁打で新人王を獲得した。◆近本光司(2019年プロ入り) 1年目成績 出場試合:142 安打:159 打率:.271 本塁打:9 打点:42 盗塁:36 関学大から大阪ガスを経て阪神に入団。開幕戦で2番センターで出場し、初安打初打点を記録。1年目は36盗塁を記録し、史上2人目となるルーキーでの盗塁王を獲得。61年ぶりにセ・リーグの新人記録を更新する159安打、オールスターでのサイクル安打達成。◆権藤博(1961年プロ入り) 1年目成績 出場試合:69 勝利:35 敗北19 防御率:1.70 奪三振:310 鳥栖高から社会人を経て中日に。伸び上がるようなフォームからの快速球で勝ち星を重ねた。35勝の新人最多勝記録で新人王を獲得。69試合に登板し、429回3分の1を投げた。8月にダブルヘッダーで1日に2勝したかと思えば、9月には2敗の珍記録も残している。◆稲尾和久(1956年プロ入り) 1年目成績:登板試合:61 勝利:21 敗北:6 防御率:1.06 奪三振:182 高校時代は無名。契約金は50万円(同期の畑隆幸は800万円)。キャンプで打撃投手を務め、コントロール抜群のスライダーが三原脩監督の目に止まった。21勝を挙げて新人王に。日本シリーズでは先発や中継ぎとして全6試合に登板。巨人相手に3勝を挙げた。◆杉浦忠(1958年プロ入り) 1年目成績: 登板試合:53 勝利:27 敗北:12 防御率:2.05 奪三振:215 立大のエースとして長嶋茂雄らと黄金時代を築いた。大学の先輩・大沢啓二に誘われ2人揃っての南海入団予定が、長嶋が翻意。「シゲ(長嶋)は遠慮せず巨人へ行け」と送り出し、杉浦は約束通り南海に入団した。開幕戦で初登板初勝利を飾ると27勝で新人王を獲得。◆中西太(1952年プロ入り) 1年目成績 出場試合:111 安打:108 打率.281 本塁打:12 打点:65 高松一高で甲子園に3度出場。すさまじいスイングスピードから繰り出される弾丸ライナーが持ち味の豪快な打撃で“怪童”と呼ばれた。西鉄に入団するとキャンプ初日の紅白戦で第一打席をバックスクリーンに叩き込んだ。シーズンが始まると12本塁打を放ち新人王を獲得。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.03 07:00
週刊ポスト
金田正一からキツいプロの洗礼(共同通信社)
長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔 いかにすごい新人だったか
 プロ野球界では、1年目から華々しくグラウンドで活躍したヒーローたちがいる。なかでもデビュー時の衝撃が大きかったのが、長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔の3人だろう。彼らの何がすごかったのか、データとともに振り返る。◆長嶋茂雄(1958年プロ入り) 1年目成績 出場試合:130 安打:153 打率:.305 本塁打:29 打点:92 ゴールデンルーキー・長嶋茂雄と国鉄スワローズの大エース・金田正一が対戦した1958年の巨人対国鉄戦はプロ野球史上、最も注目された開幕戦といわれる。通算8本塁打の東京六大学記録を引っさげて鳴り物入りで巨人入りし、オープン戦でも7本塁打と大暴れの長嶋に対し、すでに通算182勝を挙げていた金田。その対決に、後楽園球場は異様な熱気に包まれた。結果は4打席4三振。長嶋は1球もバットに当てることができなかった。 しかし、翌日から長嶋のバットは火を噴いた。新人ながら本塁打王(29本)と打点王(92打点)を獲得。新人で本塁打王はいるが、打点王は長嶋だけ。1年目から「チャンスに強い打者」を印象づけた。 打率.305はリーグ2位。盗塁は37を記録した。一塁ベースを踏み忘れた幻の1本を加えれば、3割、30本塁打、30盗塁で巨人唯一のトリプルスリー達成となっていた。 開幕戦で3番に起用された長嶋は、8月から打撃の神様・川上哲治に代わって4番を任された。日本シリーズでも4番を打ったが、西鉄の稲尾和久の前に沈黙。巨人は3連勝のあと4連敗したが、長嶋は第7戦で稲尾からランニングホーマーを放って意地を見せた。 ルーキーイヤーに6試合連続で敬遠され、そのたびに調子を崩したと言われている。現役中、敬遠に抗議するためバットを持たずに打席に入ったことがあるが、新人の時から敬遠四球が大嫌いだった。◆清原和博(1986年プロ入り) 1年目成績 出場試合:126 安打:123 打率:.304 本塁打:31 打点:78 甲子園通算13本塁打など数々の高校野球記録を樹立。子供の頃からファンだった巨人への入団を希望していたが、巨人はプロ入りを拒否していた桑田真澄を単独指名。清原は1985年のドラフト会議で6球団が1位で競合、西武が引き当てた。 開幕2戦目に公式戦デビューし、2打席目に本塁打を放った。6月には写真週刊誌に登場。門限破りで罰金を払うなど新人離れした話題を提供した。 球宴では巨人選手の前でホームランを打ってのけた。シーズン後半戦はさらに本塁打ペースを上げ、長嶋茂雄の1年目(29本)を抜いて31本塁打を放った。 シーズン終盤には4番に定着。高卒ルーキー新記録となる本塁打数に加え、打率、打点など新人記録をほとんど塗り替え、新人王を獲得。それまで高卒野手の新人王は中西太、豊田泰光、榎本喜八、張本勲の4例しかなかった。◆松坂大輔(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:16 敗北:5 防御率:2.60 奪三振:151“平成の怪物”と呼ばれた横浜高のエースは3球団競合の末、西武の東尾修監督が当たりくじを引き当てた。初登板は東京ドームでの日本ハム戦。1回に片岡篤史へいきなり155キロの快速球を投げ、8回2失点で初登板初勝利を挙げた。「東尾監督の配慮でデビュー戦は本拠地ではなくマウンドに傾斜がある東京ドームだった。余裕をもって投げていたので終盤でも150キロ台を投げた。マウンド上で自己修正ができ、そのため投げるたびに進化していった」(当時の西武投手コーチだった杉本正氏) イチローとの初対決(5月16日)では3打席連続三振に打ち取り、試合後のインタビューで「自信から確信に変わりました」の名セリフを残した。この年、16勝を挙げて新人王を獲得した。高卒ルーキーの最多勝は堀内恒夫以来、33年ぶりだった。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.03.31 07:00
週刊ポスト
プロでの活躍が楽しみな佐々木と奥川(撮影/藤岡雅樹)
奥川・佐々木はどうなる? 超高校級投手のプロ入り後の明暗
 今年のドラフトの目玉として注目を浴びる星稜・奥川恭伸投手と大船渡・佐々木朗希投手。こうした高校野球でのライバル関係は、「田中将大と斎藤佑樹」のようにその後プロでも続き、大きく明暗を分かつこともある。1964年夏の準優勝投手・池永正明(下関商)とセンバツ優勝投手・尾崎将司(徳島海南)は翌年、西鉄に揃って入団した。当時は鉄腕・稲尾和久を擁する全盛期だった。「池永は1年目から20勝を挙げて新人王、1967年には23勝14敗で最多勝に輝いた。その活躍を見た尾崎が“あんな凄い奴がいたら俺は成功できない”とゴルフに転身した。しかし尾崎がプロテストに合格した1970年に、池永は『黒い霧事件(※)』でプロ野球界を去ることになってしまいました」(ベテラン記者)【※/1969年に発覚した一連の八百長事件。池永をはじめ多数の永久追放者を出した。池永はその後、球界への復権を希望し、2005年に永久追放処分が解除された】 1965年秋の初ドラフトでは、巨人が堀内恒夫(甲府商)、近鉄が鈴木啓示(育英)を獲得した。「堀内は1年生の夏に甲子園でリリーフ登板するも、3年時は県予選決勝で敗退。鈴木も3年のセンバツで初戦敗退し、夏は出場できなかった。両者とも甲子園より、プロに入って輝いた。堀内は1年目に16勝2敗で新人王、最優秀防御率、沢村賞を獲得。鈴木も5年連続で20勝をマークするなどセ・パを代表するエースになった」(元デイリースポーツ編集局長・平井隆司氏) 大きく明暗が分かれたのが、1974年夏の優勝投手・土屋正勝(銚子商)と、同大会の準決勝で敗退した定岡正二(鹿児島実業)だ。 土屋は前年の夏の甲子園で2年生エースとして江川卓(作新学院)と対戦、延長12回を投げ勝ったこともあって最注目投手だったが、中日入団後は11年間でわずか8勝。一方、巨人入りした定岡は江川、西本聖と並ぶ3本柱として活躍した。「土屋は“江川に勝った男”として名が知れわたり、2年秋から3年夏にかけて全国から招待試合の申し込みが殺到。投げすぎで入団前から肘や肩はボロボロになっていたようだ」(ベテラン記者)◆荒木大輔の抽選を外した巨人は斎藤雅樹を獲得 1981年の注目株は、同じ愛知県のライバル、槙原寛己(大府)と工藤公康(愛工大名電)だった。2人は愛知県代表の座を奪い合い、春は槙原の大府、夏は工藤の名電に軍配が上がった。 工藤は夏の初戦でノーヒットノーランを達成するも、準決勝で報徳に敗れた。槙原はセンバツで金村明義擁する報徳学園を下した。 槙原は地元の中日か、ファンだった巨人以外なら社会人に行くと宣言。工藤は社会人の熊谷組に内定しており、指名が見送られると思われていた。「ドラフト会議当日、巨人が槙原を単独1位指名すると会場がどっと沸きましたが、それ以上にどよめいたのが、西武が工藤を6位指名した時でした。監督から管理部長としてフロント入りした根本陸夫さんの“根本マジック”が炸裂し、“球界の寝業師”と呼ばれる所以となった」(同前)  翌1982年の夏は、5季連続で甲子園出場を果たした“大ちゃん”こと荒木大輔(早実)が甲子園のアイドルとして注目を集めた。 その荒木を“やまびこ打線”の池田が準々決勝で下し、深紅の優勝旗を持ち帰る。池田のエースだった畠山準を南海が単独指名。荒木は巨人との競合の末、ヤクルトが引き当てた。「畠山は投手として4年間で6勝し、外野手に転向。荒木もプロ10年で39勝49敗2セーブに終わりました。 荒木の抽選を外した巨人がハズレ1位で指名したのが、甲子園出場経験のない斎藤雅樹(市立川口)だった。それが巨人のエースとして通算180勝をあげたのですから、運命はわからない」(前出・平井氏)撮影/藤岡雅樹※週刊ポスト2019年9月13日号
2019.09.05 07:00
週刊ポスト
米田哲也氏「稲尾和久は常時150kmですべて低めに投げた」
米田哲也氏「稲尾和久は常時150kmですべて低めに投げた」
 1936年に7球団で「日本職業野球連盟」としてスタートした日本のプロ野球。80年以上にわたる歴史のなかで一軍公式戦に出場した選手は約6700人にのぼる。では、そのなかで「史上最高の選手」は誰か? ファンではなく、大物OBたちに聞くと、世代やポジションなどによって選手の評価や見方が異なる。 そうしたなかで、レジェンドたちによる投票結果を集約した『プロ野球史上最高の選手は誰だ?』(宝島社新書)が話題になっている。105人のプロ野球OBがそれぞれ、投手、野手の上位5人を決めて投票し、その結果を集計してランキング化しているのだ。 投票したOBの年代は幅広く、上は1933年生まれの吉田義男氏(現役/1953~1969年、所属/阪神ほか。以下同)、1935年生まれの野村克也氏(1954~1980年、南海ほか)から、下は1979年生まれの岩村明憲氏(1997~2014年、ヤクルトほか)、1980年生まれの新垣渚氏(2003~2016年、福岡ほか)までカバーしている。 たとえば、捕手として唯一の三冠王に輝いた野村氏は、投手の1位に金田正一氏(1950~1969年、国鉄ほか)、2位に1958年の日本シリーズで神がかり的な活躍を見せ、“神様、仏様、稲尾様”と称された稲尾和久氏(1956~1969年、西鉄)、3位に江夏豊氏(1967~1984年、阪神ほか)を挙げた。野手では1位に山内一弘氏(1952~1970年、大毎ほか)、2位に榎本喜八氏(1955~1972年、大毎ほか)といった、捕手として攻略を試みた同年代の選手に票を投じ、3位には落合博満氏(1979~1998年、中日ほか)を選んでいる。選ぶ側も選ばれる側も、超豪華メンバーである。 史上2位の350勝を記録し、底なしのスタミナで「ガソリンタンク」の異名を取った米田哲也氏(1956~1977年、阪急ほか)は、投手の1位に稲尾氏を選んだ。米田氏はこう話す。「今のピッチャーは昔に比べて平均的に球が速いが、コントロールが悪すぎる。ど真ん中に投げたら、どんなスピードボールでも打たれますよ。僕がサイちゃん(稲尾氏)を1位にしたのは、やはりコントロールが理由です。150キロ台のボールを常時投げ、それがすべて低めにコントロールされていた。 野手では、苦手にしていた記憶のある打者を上位にあげてしまいますね。1位にした太さん(中西太氏=1952~1969年、西鉄)の打球は凄かった。ピッチャーライナーでマウンドからジャンプすれば届きそうな打球が、バックスクリーンに突き刺さるホームランになるんですから。平和台球場のレフト場外に運ばれたことも覚えています。インコースに入っていくスライダーには弱かったけど、それが少し甘くなればスタンドに持っていかれました」 では、現代の選手たちはその目にどう映るのか。米田氏が続ける。「そりゃ、今のバッターの筋力は凄いと思いますよ。練習量も多く、よく鍛えていると思いますが、それが本当に打撃にプラスになっているかは、よくわかりません。プロレスラーのような筋肉が野球で活かせるとは思えませんから。 ただ、柳田悠岐(2011年~、ソフトバンク)は見ていて対戦してみたいと感じる選手ですね。オリックスの吉田正尚(2016年~)もそう。昔も彼らのようにフルスイングする選手はいたけれど、頭がブレブレでバランスが悪かった。その点、柳田も吉田も頭がブレない。よほど体幹がしっかりしているのでしょう」 世代を超えて評価される選手もいるのだ。※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.14 07:00
週刊ポスト
プロ野球OBが選んだ歴代No.1投手「分かっとる。ワッハハハ」
プロ野球OBが選んだ歴代No.1投手「分かっとる。ワッハハハ」
 プロ野球OBによる「史上最高の選手は誰か」という投票結果をまとめた『プロ野球史上最高の選手は誰だ?』(宝島新書)が話題だ。105人のOBが投手と野手の各5人を選出、1位の選手には5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点を付与し、その合計ポイントによってランキングが作られている。 結果を見ると、投手の1位はやはり金田正一氏(現役/1950~1969年、所属/国鉄ほか)。「トルネード投法」でメジャーに旋風を巻き起こした野茂英雄氏(1990~2008年、ドジャースほか)には比較的若い世代のOBからの票が集まり2位となった。 3位にオールスター9連続奪三振などの伝説を残した江夏豊氏(1967~1984年、阪神ほか)が入り、そこに江川卓氏(1979~1987年、巨人ほか)、稲尾和久氏(1956~1969年、西鉄)が続いた。現役メジャーリーガーではダルビッシュ有(2005年~、現カブス)が6位、田中将大(2007年~、現ヤンキース)が9位で、大谷翔平(2013年~、現エンゼルス)は10位タイという結果となった。 野手では1位が王貞治氏(1959~1980年、巨人)、2位がイチロー氏(1992~2019年、マリナーズほか)で、3位に“ミスター・ジャイアンツ”の長嶋茂雄氏(1958~1974年、巨人)がランクイン。4位に落合博満氏(1979~1998年、中日ほか)、5位に松井秀喜氏(1993~2012年、ヤンキースほか)と続く。ちなみにメジャーでも二刀流を貫き、右肘の手術明けとなった今季は打者としてエンゼルスの主軸を張る大谷は、野手でも12位タイに入り、投打両部門で上位に名前が挙がる唯一の選手だった。 興味深いのは投手1位に金田氏を推したのは、野村克也氏(1954~1980年、南海ほか)、張本勲氏(1959~1981年、巨人ほか)、須藤豊氏(1956~1968年、巨人ほか)ら野手OBが圧倒的に多く、野手1位として王氏に票を投じたのは平松政次氏(1967~1984年、大洋)、齊藤明雄氏(1977~1993年、横浜)、北別府学氏(1976~94年、広島)ら投手OBが多かったことだ。 世代による意見の違いを超えたナンバーワンには、同じプロのなかでも“対戦相手の目線”から票が集まったことになる。投手1位に輝いた金田氏に話を聞くと、豪快に笑いながらこう話す。「他人様から史上最高の選手とか言われなくても、自分でわかっとる。大きなお世話だよ。ワッハハハ」※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.09 11:00
週刊ポスト
「令和の怪物」と称される大船渡・佐々木朗希投手(写真:時事通信フォト)
大船渡・佐々木朗希は昭和33年の稲尾和久並みの酷使だった
 7月25日に行なわれた高校野球の岩手県大会の決勝戦・花巻東対大船渡で、最速163キロを誇るエース・佐々木朗希投手は登板せず、大船渡は敗戦。試合後、国保陽平監督は21日の盛岡四戦で194球、24日の準決勝の一関工戦でも129球を投げていた佐々木投手の状態を考慮し、故障を防ぐために登板回避を決断したという。 ここで、ある3人の投手の投球数データを紹介しよう。【1】9日間4戦435球──。【2】6日間4戦436球──。【3】11日間6戦578球──。【1】は7月16日の2回戦から24日の準決勝までの9日間で、佐々木投手が登板した試合数と球数である。では、似たような数字の2つは一体、いつの誰の戦績なのか。 その前に、プロ野球における先発投手の役割の変化を振り返ってみよう。近年は分業制が進んでおり、6回3自責点で試合を作ったと評価され、投手の美学とされてきた“先発完投”も減っている。その数の推移を30年毎に見てみよう。・長嶋茂雄が巨人に入団した昭和33年:セ・リーグ262、パ・リーグ217、計479。・東京ドームが開場した昭和63年:セ・リーグ170、パ・リーグ271、計441。・平成最後のシーズンとなった昨年:セ・リーグ43、パ・リーグ42、計85。 昭和33年から63年にかけては38しか減少していないが、その後の30年で356も少なくなった。つまり、昭和と平成後期では、投手の役割についての考え方が大きく変わっている。 昭和60年代、不調に陥った“昭和の怪物”こと江川卓(巨人)は100球前後で降板する試合が目立ち、『100球肩』と叩かれていたが、現代の先発投手は中6日で100球を目処にマウンドを降りている。時代によって、価値観は変化しているのだ。 戦後間もない頃のプロ野球では、先発と控えに実力差があり、同じ投手が連投することも珍しくなく、酷使に耐えて勝利をもぎ取る姿はヒーローの条件とさえ言われた。 昭和33年、西鉄対巨人の日本シリーズでは稲尾和久(西鉄)が7戦中6戦に登板。そのうち、5回先発して4完投を挙げている。 10月11日の初戦に先発するも4回KO。翌日の第2戦は出番なく終わるも、中2日で14日の第3戦で先発。1失点完投も、打線の援護なく敗戦投手に。巨人が3連勝で日本一に王手をかけた。 後がなくなった西鉄は、中1日空いた16日の第4戦も稲尾が先発し、完投勝利を収める。翌17日の第5戦、稲尾は4回表から中継ぎとしてマウンドに上がり、延長10回表まで投げ切る。その裏、自らサヨナラホームランを放ち、勝利投手になった。 巨人の3勝2敗で迎えた第6戦、中2日の稲尾がまたしても先発して完封勝利を上げる。そして、第7戦も2日連続の先発完投を果たし、西鉄が4勝3敗で大逆転の日本一を飾った。11日間に及んだシリーズで6試合に登板し、578球を放った稲尾はMVPに輝き、『神様、仏様、稲尾様』と称えられた。これが、上記【3】の投球数データである。 昭和34年、南海対巨人の日本シリーズでは杉浦忠が4試合で32イニングを投げている。10月24日の初戦に先発し、8回を投げて勝利投手に。翌日の第2戦は3番手として5回からマウンドに上がり、9回まで投げ切って2勝目を挙げた。中1日で第3戦に先発すると、延長10回142球の完投勝利。雨天中止の中1日を挟んで、29日に3度目の先発でまたしても完投勝利。巨人を4タテし、南海を日本一に導いた。 6日間で4試合に登板し、436球を投げた杉浦は当然のごとくMVPに選出された。これが【2】の投球数データだ。 試合間隔や球数を並べると、大船渡の佐々木投手は当時の稲尾や杉浦並みに酷使されていたと言える。 ちなみに稲尾と杉浦の2人はこのシリーズだけでなく、シーズン中も投げまくっていた。その影響かどうかはわからないが、6年目に78試合登板で42勝という空前絶後の記録を作った“鉄腕”稲尾は27歳の9年目に肩を壊し、プロ3年間で96勝を挙げた杉浦は26歳の4年目に動脈閉塞を患い、思うようなピッチングができなくなった。 エースと2番手投手にどうしても差が出てしまいがちな高校野球は、昭和30年代のプロ野球のスタイルを未だに続けている状態だ。この状態がいつまで続くのか、国保監督の佐々木温存作戦は、高校野球の在り方に一石を投じたと言えるだろう。●文/岡野誠:ライター・データ分析家・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシ、プロ野球選手名鑑など。著書に『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)がある。
2019.07.28 16:00
NEWSポストセブン
本塁打数歴代4位の「ミスター赤ヘル」こと山本浩二もランクインせず(写真:時事通信フォト)
歴代プロ野球選手の人気投票、あの選手が上位に入らない理由
 12月24日、『プロ野球総選挙~レジェンド選手編~』(テレビ朝日系)が放送された。今回は、既に引退した選手のみで一番すごい選手を決めるという企画。球場に訪れていた野球ファンのみならず、プロ野球OBや監督、コーチ、現役選手にもアンケートを実施し、1万人の投票でランキング上位30人を決めた。 同番組に関して、野球担当記者はこう語る。「このような投票をすると、必ず『なぜあの選手は入ってないんだ』『恣意的に選んでいるのではないか』という意見が出てきますが、それはプロ野球が人気ある証拠です。ある程度の偏りは仕方ないですし、数十年前に活躍した選手よりも、どうしても記憶に新しい最近の選手を選んでしまう傾向がある」(以下同) 今回のベスト30のなかで、投手は10人。ベスト10に絞ると4名になる。4位の沢村栄治(巨人)、5位の野茂英雄(近鉄、ドジャースなど)、6位の金田正一(国鉄、巨人)、10位の黒田博樹(広島、ヤンキースなど)がランクインした。「日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂、空前絶後の400勝を挙げた金田は別格。黒田は日米通算勝利数では野茂を上回り、歴代1位の203勝。年俸20億円のメジャーよりも、5分の1の4億円で広島に復帰し、優勝を果たしたというストーリーが記憶に新しい。そのことも、加味されたのでしょう。沢村栄治は野球史を紐解くと、必ず出てくる名前なのでファンの記憶に残っている」 歴代勝利数ベスト20のなかで、今回の企画でランクインしたのは金田、山本昌(中日)、村田兆治(ロッテ)だけ。歴代2位の米田哲也(350勝)、3位の小山正明(320勝)などは選ばれなかった。「江夏豊(16位)、稲尾和久(14位)より星野仙一(12位)の順位が上だったのも意外でした。あくまで現役時代を対象に聞いているはずですが、アンケートの回答者の中には監督時代のイメージが強く残っている人もいたのでは。現役時代の成績は、星野146勝34セーブ、江夏206勝193セーブ、稲尾276勝です。逆に言えば、星野のインパクトはそれほど強かったという証明ですし、良い意味でメディア操縦術に長けていたとも言える」 ベスト30のうち野手が20名を数えた。ファンの記憶に残りやすいのは、毎試合出場する野手のようだ。「30名中13名が巨人在籍経験のある選手だった点も注目です。その中で投手は金田、桑田真澄(20位)、江川卓(21位)の3名だけ。毎試合のようにゴールデンタイムで視聴率20%を獲っていた時代の巨人のレギュラー野手の知名度、印象度が高い証拠でしょう」 ベスト3は1位・王貞治、2位・長嶋茂雄、3位・松井秀喜と、巨人の生え抜きが独占した。「この番組を通して、人は記憶、印象で物事を判断しがちだということも分かりました。当たり前のことですが、自分の知っている範囲でしか何かを語れない。今回のベスト30には、1960年代以前に引退した選手は沢村栄治、金田正一、川上哲治、稲尾和久の4名しか入りませんでした。当時のことを知る人が少なくなってきていますから、ある程度仕方のないことかもしれません。今回のような人気投票はあくまで主観にすぎないなのです。 しかし、プロ野球には記録という客観的なデータが残っている。これが素晴らしいところ。安打数歴代4位、本塁打数歴代3位の門田博光(2566安打、567本)、本塁打数歴代4位の山本浩二(536本)などは今回、ベスト30に入りませんでしたが、功績は決して色褪せない。逆説的になりますが、この番組によって、客観的な数字を残しておくことが、いかに大切かも分かりました。歴代のプロ野球記録員の功績といっていいでしょう」 思い入れのある選手は人それぞれ。84年に及ぶ歴史を誇るプロ野球の中で、人気投票をすれば順位に批判はつきもの。その中で、放送を決断したテレビ朝日にも拍手を送るべきだろう。
2018.12.27 16:00
NEWSポストセブン
金田正一氏 乱闘では「味方の選手までワシを踏んでやがった」
金田正一氏 乱闘では「味方の選手までワシを踏んでやがった」
 プロ野球の歴史をひもとくと、乱闘どころか暴動と呼ばれるような事件も起きている。1974年5月23日、平和台球場での太平洋―ロッテ戦で、ロッテ・金田正一監督が発した太平洋・稲尾和久監督への暴言からファンが暴徒化。金田がバットを振り上げてファンを威嚇するなど、警察が出動する事態に発展した。往時を金田氏が振り返る──。 * * * ワシの審判への抗議はパフォーマンスなんじゃよ。いつも口元が映らないようにテレビカメラを背にして、「すまんがこれから怒鳴るから、しばらく黙って聞いてくれ」と審判に小声で謝っていたんじゃからな。たまに暴言を吐く審判がいてカーッとなることがあっても手は出さない。反射的に足は出たがな(笑い)。 ワシが絡むとすぐに遺恨試合となるが、あの時は太平洋が集客アップのために遺恨を煽り立てたのよ。ワシは演出のつもりだったが、汚い言葉で野次ったりしてマナーが悪いことで有名だった太平洋のファンが本気になってしまったというのが真相なんじゃ。 そもそもファンを鎮めることができない稲尾(和久監督)をボロクソにけなしたのが始まり。それでファンが騒ぎ出して“金田憎し”となった。すると太平洋の球団代表が、「遺恨試合として営業させてほしい」と頭を下げてきたんじゃ。ワシも客は入らない辛さはわかっていたから、「どんどんやれ。協力してやる」といったのよ。 それからロッテと太平洋の試合は遺恨試合として盛り上がり、平和台でも川崎でも超満員。選手や監督同士は和気あいあいとやっていたが、ファンは知らないからね。どんどんエスカレートして、マジの遺恨試合になってしまったのよ。 太平洋のファンは試合中にスタンドから物を投げ、終わると同時にバスを取り囲む。最後は警察の提案で、頑丈な護送車で帰ったんだよ。おかげで金田は喧嘩っ早いとのイメージが定着したんじゃよ(笑い)。 今でも選手には申し訳ないと思っているが、あいつらも日頃の恨みをグラウンドで晴らしよるんじゃ。乱闘になって揉みくちゃにされることはいつものことだったが、気がつけば味方の選手までワシの背中を踏んでやがった(笑い)。●かねだ・まさいち/享栄商を中退して1950年に国鉄入団。国鉄では14年連続20勝を記録し、1965年巨人移籍。通算400勝、4490奪三振など数々の記録を残し1969年に引退。ロッテ監督として1974年日本一に輝く。※週刊ポスト2018年4月13日号
2018.04.08 07:00
週刊ポスト
歴代最高投手総選挙1位の金田氏「当たり前だろうが!」
歴代最高投手総選挙1位の金田氏「当たり前だろうが!」
 テレビ朝日が1月、『プロ野球総選挙』という番組を放送したが、その結果は、投手部門の1位が今春、MLB・エンゼルスへの入団が決まった大谷翔平。打者部門の1位がイチロー。これに対して、往年のファンから異論が続出している。 長年にわたって野球を観戦してきた、ファンの熱い思いをすくい取らなければならない。そう考えた本誌・週刊ポストは、1000人を対象に愛読者アンケートや読者への聞き込み調査を実施。その結果、選ばれたのは、テレビ番組とはまったく違ったメンバーだった。投手部門の1位は誰か。 1位は、ご存じ「カネやん」こと金田正一(242票)。プロ野球史上唯一の400勝投手だけに、「14年連続20勝なんて、ありえない数字」(69・元メーカー)とファンも納得の様子だ。本人に結果を伝えると、開口一番「当たり前だろうが!」と言いつつ得意満面。「400勝とかではなく、技術、考え方、鍛え方、体のケアと、何をとってもワシの右に出るヤツはおらん。少しでもバッターの近くで投げるために、上体ではなく下半身で投げていた。 長嶋(茂雄)が“打とうとしたらボールが消えた”と言っていたが、ボールが下から浮き上がってくるんだから、打てっこないよ。鉄腕だかなんだか知らないが、稲尾(和久)なんかと比べちゃいけません。大谷? テレビはシャレでやってるんだから真に受けちゃいかんよ」 とはいえ、2位の稲尾(元西鉄・98票)が残した印象も鮮烈だ。1958年に巨人と対戦した日本シリーズでは7試合中6試合に登板。6、7戦は連投でいずれも完投勝利をあげ、3連敗の後の4連勝という逆転劇を果たした。82歳の往年のファンが言う。「1961年には78試合に登板して42勝。若いファンには想像もできない数字でしょ? 酷使がたたって選手寿命は短かったけど、今でも脳裏に焼きついている」 巨人の名遊撃手としてV9に貢献し、監督としてもヤクルト、西武を日本一に導いた広岡達朗氏も、「大谷がスピードボールを投げるといっても、金田や稲尾は速いだけじゃなくコントロールもあった。先発完投して連投もしたんだから、今の過保護なピッチャーと一緒にしてもらいたくない」とピシャリ。 3位の江川卓(巨人・84票)には、「高校時代が一番すごかった」との声が多数。「甲子園の江川だけだよ、本当の『怪物』は。なにしろバットにボールが当たらないんだから。バントさえできないような速球なんて、大谷にだって投げられないよ。高校からそのままプロに入っていれば、300勝はしたと思う」(65・自営業) 5位・江夏豊(69票)の奇跡を、デイリースポーツ元編集局長・平井隆司氏(75)が振り返る。「1971年のオールスターで記録した『9者連続三振』はもちろんですが、プロ2年目の1968年9月17日の阪神・巨人戦も忘れられない。稲尾が持っていたシーズン三振記録に並ぶ353個目を王から奪い、その後あえて打たせて取るピッチングをして、1巡した後に王から新記録となる三振を奪った。これぞミラクルですよ」 先日亡くなった星野仙一(6位・51票)、「ザトペック投法」の村山実(14位・17票)なども、ONの好敵手として記憶に残る投手たちだ。11位ながら、元南海のエース、杉浦忠(22票)の名前を挙げたパ・リーグファンも。「1959年に38勝を挙げ、巨人との日本シリーズに臨んだ杉浦は、長嶋を徹底的に抑え込み、4連投して4連勝。今でこそパ・リーグも人気があるけど、当時肩身の狭かったパ・リーグファンが、杉浦の熱投にどれだけ歓喜したことか。今のファンにはわかんないだろうなぁ」(74・元会社員) トップ20に入った選手は、いずれも大記録の持ち主だが、ファンに熱く支持された理由は、その記録を築き上げたひとつひとつの試合、プレーにドラマがあったことが大きかったようだ。そんな野球の魅力を体現してきた選手こそが、歴代最高の選手。大谷にもぜひ、そんな選手になってほしいものである。◆週刊ポスト読者が投票したプロ野球総選挙〈投手部門・上位20人〉(カッコ内は主な球団。数字は票数)1位 金田正一(国鉄、巨人)2422位 稲尾和久(西鉄)98    3位 江川卓(巨人)844位 野茂英雄(近鉄)815位 江夏豊(阪神、広島)696位 星野仙一(中日)517位 大谷翔平(日ハム)358位 沢村栄治(巨人)34    9位 村田兆治(ロッテ)2510位 田中将大(楽天)2311位 杉浦忠(南海)2212位 ダルビッシュ有(日ハム)2013位 伊藤智仁(ヤクルト)1914位 村山実(阪神)1715位 津田恒実(広島)1616位 堀内恒夫(巨人)1517位 斎藤雅樹(巨人)1318位 黒田博樹(広島)1218位 佐々木主浩(横浜)1220位 山田久志(阪急)11※週刊ポスト2018年2月16・23日号
2018.02.07 11:00
週刊ポスト
巨人・高橋監督 「引退即監督」の弊害はどこまであるか?
巨人・高橋監督 「引退即監督」の弊害はどこまであるか?
 球団ワーストタイ、42年ぶりとなる11連敗を喫した巨人。2年目を迎えた高橋由伸監督への風当たりも当然ながら強くなっている。開幕からセカンドを任せた中井大介が結果を残していないにもかかわらず、5月中旬までスタメンで起用し続けた。外国人枠の問題があったとはいえ、同じくセカンドで、二軍で3割1厘、8本塁打と格の違いを見せつけていたルイス・クルーズはなかなか昇格できず、7連敗後にようやく今季初昇格させたものの、好調の時期は過ぎ去ってしまったのか、6月2日の初スタメンから3試合連続ノーヒット。坂本勇人を1番に起用したオーダーも爆発までには至っていない。野球担当記者が話す。「高橋監督の準備不足の一言に尽きるのではないでしょうか。もともと本人は現役続行するつもりだったにもかかわらず、球団から突然指名され、監督就任を受諾せざるを得なかった経緯があります。2年目ですから言い訳は許されないとはいえ、高橋監督に同情する声はいまだにありますよ」 現役引退後、即監督に就任したのは、高橋監督を含め7人いる。最も良いスタートを切ったのは、2004年に就任した西武・伊東勤監督だ。1年目、リーグ戦2位ながらプレーオフを勝ち抜き、優勝。日本シリーズでも落合博満監督率いる中日を下し、日本一に輝いている。西武では4年間で3度Aクラスを確保した。 だが、1954年の国鉄・藤田宗一、1970年の西鉄・稲尾和久、1975年の巨人・長嶋茂雄、 1978年の南海・広瀬叔功、1987年のロッテ・有藤通世は、就任1年目はいずれもBクラスに終わっている。 野球史に燦然と輝く名選手たちは、窮地に陥った球団からスターの威光を期待され、引退即監督という道を受けている。稲尾は黒い霧事件でチームがダメージを受けている時、広瀬は野村克也選手兼任監督の解任で江夏豊や柏原純一といった主力が抜けた後、ミスターロッテ・有藤通世も川崎球場に閑古鳥が鳴く時代に監督に就任した。 思えば、高橋由伸監督の就任前の巨人には、野球賭博という大問題が横たわっていた。「球団は困った時、スター選手の名声に頼ろうとします。しかし、専任コーチの経験もなければ、外から野球を観る機会もなかった元選手が監督になって、いきなり名采配をふるえるほどプロ野球は甘くない。監督ではなく、指名した球団に責任があると思います」(同前) 現役引退後、即監督に就任したチームで、名監督の域に達したと言える人物はなかなかいない。藤田は2年連続、稲尾は5年連続、広瀬と有藤は3年連続でBクラスになり、辞任に追い込まれている。長嶋も6年間で2度の優勝をしたものの、常勝を義務づけられた巨人で日本一になれなかった。「かといって、彼らが指導者として才能がなかったわけではありません。藤田は1956年に社会人・日本通運浦和の初代監督に就任し、2年目に都市対抗野球出場を果たし、準優勝しています。稲尾は1978年から1980年まで中日の投手コーチを務め、小松辰雄や牛島和彦を育てた。1984年、ロッテの監督となると2年連続2位に。落合博満や愛甲猛といった一匹狼も稲尾に心酔するなど人心掌握術に長けていた。 広瀬は1991年から2年間ダイエーの守備走塁コーチを務め、1991年は大野久、1992年は佐々木誠と2年連続盗塁王を輩出。チームに走る意識を植えつけ、1991年には両リーグ1位となる141盗塁を記録させた。長嶋茂雄も2度目の監督就任後は2度の日本一に輝き、1994年の10・8決戦や日本シリーズという短期決戦で名采配を見せています。有藤だけはその後、指導者のチャンスが巡ってきていませんが……」 過去の例を振り返る限り、必ずしも由伸監督の監督としての能力に問題があるとは言えなそうだが、やはり引退即監督就任というのは茨の道だったのか。「経験の少ない高橋監督を支えるヘッドコーチが重要になってくる。村田真一ヘッドは人柄も良く、バッテリーコーチとしては問題ないが、ヘッド格は荷が重いのかもしれません。昨年優勝できなかった時点で、2軍監督やヘッドコーチとして経験豊富な川相昌弘を戻すべきでした。まだシーズンが終わったわけではありませんが、高橋監督以上にフロントの責任が問われるべきだと思います」
2017.06.07 16:00
NEWSポストセブン

トピックス

安倍政権の年金改悪路線を引き継いでいる岸田文雄・首相(時事通信フォト)
岸田政権 アベノミクスの見直し打ち出すも、安倍氏の「年金改悪路線」は継承
週刊ポスト
元TBSアナウンサーの林みなほ(オフィシャルサイトより)
元TBS・林みなほアナ離婚、インスタで匂わせていた「貧乳源一郎」との別れ
NEWSポストセブン
高橋真麻
高橋真麻「おでんの卵8個食べても太らない」女性が憧れる美スタイルの理由
NEWSポストセブン
「タレントパワーランキング」で公表された「F1層(20~34歳女性)に人気のタレントランキング」(2021年11月調査)で堂々の1位を獲得
戸田恵梨香、ファン歓喜の「仕事復帰」 夜の路上で輝いたクールビューティー
NEWSポストセブン
眞子さまの箱根旅行のお姿。耳には目立つイヤリングも(2018年)
小室圭さんの妻・眞子さん 華やかだった4年前の「箱根・女子旅ファッション」
NEWSポストセブン
元TBSの林みなほアナ(写真/時事通信フォト)
元TBS林みなほアナが離婚 TBSラジオ名物プロデューサーとの結婚生活は5年あまりでピリオド
NEWSポストセブン
小泉孝太郎 炎上必至の「古風な結婚感」明かすもバッシングされなかった理由
小泉孝太郎 炎上必至の「古風な結婚感」明かすもバッシングされなかった理由
NEWSポストセブン
米ロサンゼルスで警察官となった日本人女性YURI氏
LAポリス・YURIが7年ぶりに見た日本の姿「防犯意識の低さに驚きました」【前編】
NEWSポストセブン
小室圭さんと眞子さん
小室圭さん妻・眞子さんがNYで行きつけのスーパーから見えてきた“妻の気遣い”「日本でいえば『成城石井』」 
NEWSポストセブン
さとう珠緒が「枕営業」などについて語った(写真は2009年)
さとう珠緒が暴露した枕営業の実態「権力のない人のほうが迫ってくる」
NEWSポストセブン
ご体調への不安が募る(写真/JMPA)
雅子さまと愛子さま、“ポツンと一軒家”の孤独感 閉ざされた御所での巣ごもり生活
女性セブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
NEWSポストセブン