この点、つまり「わが兵が中国軍将校に斬りつけたらしい」について著者の山本四郎は「ほぼ確実」としている。もちろんあくまで推定なので「ほぼ」と言っているわけだが、私はこれも推定だが山本との見解とはまるで反対で日本兵が中国将校に傷を負わせた事実は無かったと考えている。もちろん日本びいきで言うのでは無い。根拠はある。

 この時点で日本と北軍は交戦しているわけでは無い。だから日本側には極力北軍に戦闘を仕掛けたと誤解されるような行為は取るべきでは無い。だからこそ、当事者の西村少尉は相手のなすがままに身を任せたのだろう、抵抗しようと思えば武器を持っていたのだからできたはずだが、それをしなかった。そうしなかったからこそ、中国側も他に死傷者を出さず容易に西村少尉を拘束できたわけだ。

 もちろん部下の兵士にも「絶対に抵抗するな」と命令したはずであり、それにもかかわらず上官の命令には絶対服従しなければいけない兵士が、命の危険も無かったのに相手をいきなり殺そうなどとすることは、きわめて考えにくい。それに二人が軍装であったことは中国側も認めているわけだが、通常の軍装の場合将校はたしかに軍刀を所持しているが、兵士は帯剣していないはずである。もっともこの点は兵士がどのような兵科であったかによって違ってくるし、護身用に私物の刀剣を持っていた可能性もゼロでは無い。しかし、ポイントはもっとほかのところにある。

「勝ち戦」での略奪はあたり前

 中国側の主張が正しければ、「交戦中でも無いのに日本軍の兵士が所有する武器で中国将校を殺害しようとして傷を負わせた」ということである。中国側にとっては外交的、軍事的にきわめて大きなアドバンテージになる。犯人の兵士を拘留し続けて供述を取り証拠を固め、国際社会に日本の無法を訴えていけばいいのだ。しかしそうはしなかったのだから、実際は中国側に問題があり「傷害」は自作自演であると考えるのが筋というものだろう。

 中国人の研究者はこうした見方に反発してくるかもしれないが、冷静になって考えていただきたい。このときの中国側の代表者は誰か、あの袁世凱ではないか。この事件については現場が揉み消そうとした形跡は無く、すぐに報告が上層部に達している。本当に「日本軍の兵士が中国将校を殺害しようとした」のならば、あの袁世凱が黙っているはずが無いではないか。にもかかわらず、中国側もこの件は穏便に済ませようとしている。あの「言い掛かりの天才」とも言うべき「ストロングマン」袁世凱が、である。

 つまり、この事件においてはまず双方が一致して認めているように、国際法上はあきらかに違法である「西村少尉と部下に対する私刑」が実行された。その報告に接した中国側上層部はきわめてまずいと判断し、中国側がそのような蛮行に踏み切ったのは日本側の仕掛けがあったことにしろと上層部が命令したか、それとも現場が忖度して判断したかはわからないが、最終的に「日本側の兵士が先に手を出した」という形でこの問題を乗り切ろうとしたのだろう。報告書にあるような「刺し傷」なら簡単に作れるし、血糊も同様だ。

 ただし、いま述べた見解はあくまで推測であって、事実を確定することはおそらく今後も不可能だろう。じつは当時の日本側いや陸軍もそう考えていた。では、双方水掛け論に終わらせずにこの事件を日本側のアドバンテージにするにはどうすればよいか? 中国側も認めている「私刑の実行」を、帝国陸軍ひいては大日本帝国に対する袁世凱政権の侮辱行為として大々的に宣伝することである。そこで陸軍は、これを「帝国軍人に対する凌辱事件」としてマスコミ(新聞と雑誌)に流した。

「大日本帝国国民煽動部門」の新聞にとっては、「待ってました」といったところか。世論はあくまで第二革命で袁世凱に敗れた孫文の味方であるし、袁世凱という「悪」を懲らしめるべしというのは多くの日本国民の思いでもある。その思いに沿ったのが、前に紹介した一九一三年(大正2)九月六日付の「帝國軍人凌辱事件」という『東京朝日新聞』の記事だが、その漢口事件の記事のなかで強調するために大きな活字を使った部分だけ述べると、「法外なる侮辱」「軍帽軍衣を剥ぎ」「手を以て打ち靴を以て蹴り」「軍及長靴を脱せし」「停車場内の支柱に縛し衆人の觀覽に供する事」「高く柱に吊し」である。

 ただ、そうした思いと中国に対する領土的野心を混同してはならない、という良識派もいた。伊藤博文から始まって西園寺公望、山本権兵衛に連なる人々である。これに対して山県有朋、桂太郎に始まる陸軍強硬派、とくに桂太郎以降は欧米列強を見習った領土的野心を優先していた。前回紹介した阿部守太郎十か条の一番目にあったとおり、当時は満蒙問題論=領土占領論のほうが「巷間唱道」つまり世間で広く叫ばれていたのである。要するに、隙あらば中国の領土をもっと奪ってしまえ、ということだ。そういう野望を抱いている人々にとって、次に起きた南京事件はさらに都合がよかった。

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