「100万を超える減刑嘆願書」

 ところで少し先の話だが、この阿部守太郎暗殺事件の影響によって起こったと私が考える、昭和史の分岐点とも言うべき重大事件について述べなければならない。歴史学者はこの二つの事件に因果関係があるとは夢にも考えていないようだが、それは五・一五事件である。「おいおい、それは昭和七年(1932)の事件じゃないか。いま書いているところは大正二年(1913)だろう」と思われる向きがあるかもしれない。

 たしかに、両事件の間には十九年もの月日が流れている。しかし、この『逆説の日本史』シリーズの愛読者ならご存じのように、遠い昔に起こったことが現在の事件に影響を与えていることも珍しくは無い。言霊の影響などその典型的な事例だが、ここではまず五・一五事件の内容を詳しく知ってもらう必要があるので、百科事典の記述を長めに引用する。じっくり読んでいただきたい。

〈1932年(昭和7)に起きた海軍青年将校を中心としたクーデター事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。1931年の十月事件失敗後、海軍青年将校は井上日召(にっしょう)らと結んでクーデター計画を進めてきた。32年の血盟団事件で団員が検挙されると、海軍側は上海(シャンハイ)事変で戦死した藤井斉(ひとし)にかわって、海軍中尉古賀清志(こがきよし)、三上卓(みかみたかし)らが中心となって計画を進めた。当初、陸軍側青年将校と協同して決行するつもりであったが、陸軍側は陸相荒木貞夫(さだお)による合法的国家改造に期待して動かず、結局、海軍側が中心となって決行することになった。32年3月末に第一次実行計画をたてたのち、チャップリン歓迎会場襲撃計画など計画はしばしば変更されたが、5月13日の第五次計画を実行に移すことになった。右翼の大川周明(しゅうめい)(神武会〈じんむかい〉)、本間憲一郎(ほんまけんいちろう)(紫山塾〈しざんじゅく〉)、頭山秀三(とうやましゅうぞう)(天行会〈てんこうかい〉)らが資金や武器の援助を与えた。5月15日午後5時ごろから古賀ら海軍士官6名、後藤映範(えいはん)ら陸軍士官候補生11名、それに元士官候補生や血盟団残党を加えた総勢19名は、4組に分かれて、首相官邸をはじめ内大臣邸、三菱(みつびし)銀行、日本銀行、政友会本部、警視庁などを襲撃し、犬養毅(いぬかいつよし)首相や警備巡査を射殺、巡査ら数名に傷を負わせた。他方、農本主義者橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)が主宰する愛郷(あいきょう)塾の塾生を中心に編成された別働隊は、東京市内6か所の変電所を襲ったが、機械や建物の一部を破壊しただけで首都を暗黒化するという所期の目的は達せられなかった。また、同日血盟団の残党川崎長光は、陸軍側の決起を妨げた裏切り者として西田税(みつぎ)を襲い重傷を負わせた。彼らのねらいは、一連の暗殺と破壊によって既成支配層に威圧を加え、同時に市中を混乱に陥れて戒厳令を施行させ、軍部中心の内閣をつくって国家改造の端緒を開くことにあり、彼ら自身の具体的政策、方針はなかった。

 戒厳令施行は実現されなかったが、この事件は次の点で日本のファッショ化に大きな影響を与えた。(1)政党政治の時代に終止符を打ったこと、(2)軍部の発言権を増大させたこと、(3)右翼団体の続出、(4)出版界の右傾化、(5)急進的国家改造運動に対する国民の共感、などである。犯行後、海軍士官や陸軍士官候補生らは東京憲兵隊に自首したが、民間側も11月5日までには全員検挙された。公判は、33年7月24日の海軍側を皮切りに開始され、控訴、上告を行った大川、本間、頭山を除いて、34年2月3日までには刑が確定した。一般に民間側に比べて軍人側、とくに陸軍側の刑が軽いのが目だつし、また、この間、100万を超える減刑嘆願書が寄せられたことが前記(5)との関連で注目される。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者安部博純)

「この事件のことなら知っているよ。歴史ドラマでも見たことがある」という方もいるかもしれない。たしかに、歴史ドラマだけで無くNHKなどの歴史ドキュメンタリーでも何度も扱われている。しかし、あなたがたぶんご存じでなかったか、深く認識していなかったことが一つある、と私は思う。失礼な言い方かもしれないが、少なくとも多くの日本人はそのことを忘れている。

 それは「100万を超える減刑嘆願書」が政府に寄せられたということだ。「100万」とは途方もない数である。いまと違ってメールも無ければツイッターも無い、それどころかワープロも無い。すべて手書きで郵送しなければならない。かつて新聞社では連載小説について読者からハガキが一枚くると、読者は数千人いるという計算をしていた。それをこの一〇〇万人に当てはめてみたらどういうことになるか。

 ハガキは出すのが簡単だが、封書はそうはいかない、たしか、血書で書かれたものもあったと記憶している。しかし、この事件では現役の海軍将校が国を守るために支給された武器を使って丸腰の首相を問答無用で撃ち殺したのである。

 きわめて卑劣なテロではないか、しかし、じつは日本人のほとんどがそれを「正義」と考えたのである。なぜそうなったかは、繰り返すまでもあるまい。

(1386回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年7月14日号

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