現役時代、賢三さんは幼稚園の送迎バスを運転する仕事をしていた。そのため、窓から道路を走るバスを見ると「俺のバスだ。運転しなければいけない」と言って出かけようとするため、マユミさんは止めるのが大変だった。行方が分からなくなってしまったことも2回あったが、すぐに無事発見された。それで、今回も大丈夫だろうと最初は考えていた。
ところが、なかなか姿は見当たらない。日が沈んだのは20分程前で、刻一刻と暗闇が濃さを増していく。マユミさんは同居していた娘の裕子さんや孫とともに、あたりを捜し回った。
「お願いします。誰かいませんか」
助けを求めようと、近所にある駐在所に行って、ドアを叩きながら大声で呼んだが、出てこない。たまたま通りかかった警察官に事情を説明し、消防にも連絡。近所の人にも助けを頼んで、車やバイクも使いながら、あらゆる道を捜し続けた。
この日の夜は、気温が3度を下回る厳しい寒さだった。暗闇の中では、もう探す術はない。一家は、いったん家に戻り、警察などからの連絡を待ちながらまんじりともせずに一夜を過ごした。
空が明るくなると同時に再び捜し始めたが、手がかりは得られない。娘の裕子さんは、多摩中央警察署に出向き、行方不明者届(捜索願)の手続きを済ませた。これ以降、家族は、遺体が見つかるまでの3週間、ひと時も心が安らぐ瞬間はなかった。
「今日はどうでしたか、今日はどうでしたか」
妻のマユミさんは、毎日、警察署へ電話をかけ続けた。娘の裕子さんは子どもにも手伝ってもらい、手作りのチラシを作成した。顔は写真を使い、それ以外の服装は手描きの絵で表現した。
チラシは、近隣のコンビニエンスストアや商店を一軒一軒訪ね、貼らせてもらった。バス会社やタクシー会社にもお願いした。捜した場所は数えきれなかった。竹藪、梨畑、ブドウ畑、川沿いの土手、工事現場、ちょっとした崖になっている所。思いついたらすぐに家から飛び出していき、その場所を覗き込んで人が倒れていないか目を凝らした。
マユミさんは、次第に夜も眠れなくなり、睡眠薬を飲んでソファーでうたた寝をする、苦しい日々を送っていた。
「本当にもう毎日が地獄という感じでした。このまま見つからなかったらどうしようという思いと、必ず見つかるという思いが錯綜して。こんな別れ方をしなきゃいけないなんて、どうしてなんだろうと思ったりもして……。ただもう、早く見つかる、早く見つけたいということだけでした」
賢三さんは、認知症以外に、以前から患っている持病の薬を定期的に飲んでいて、その薬の効果が切れると声を上げたり動いたりすることが困難になってしまう。このため、行方不明になって数日経てば、生存の可能性は非常に低くなる。そのことを家族は頭では理解していた。それでも、どこかで助けられ命をつないでいるのではないか。そう思い、先の見えない日々が続いていた。