こうしたなか、「軟弱外交」の主体であった山本内閣が倒された。井上ら強硬派は、「悪の帝国に対して明治天皇の大業を継続するのは正義」と考える、「明治維新の志士」大隈重信に日本を託した。犬養毅や原敬といった政党人は近代国家日本の育ちで、植民地主義は露骨すぎると考えている。だから、「戸水の主張」は「火事場泥棒」だと非難した。そんなやり方は古いし危険だ、ということだ。

 それに対して井上ら強硬派の気持ちをわかりやすくまとめれば、「若造どもはなにもわかっておらん。そもそも欧米列強の日本植民地化の野望を食い止めたのはわれわれだ。明治大帝を中心として日清・日露両戦役にも勝ち、日本を欧米列強に伍する国にしたのもわれわれだ。そのために十万の英霊が犠牲となった。だから、この犠牲によって獲得した支那への権益は死守せねばならない。また、この権益を拡大していくことこそ大日本帝国の繁栄につながり、彼ら英霊の供養(その死を無駄にしないこと)にもなる」

 これがいかに強力な論理であるか、日本人にはよく理解できるだろう。さらに、これに加えて「いまの中国は孫文では無く、袁世凱が仕切る悪の帝国だ」という「見方」が加わる。それでも「火事場泥棒は許されない」という良識が「支那から土地や利権を奪ってしまえ」という強硬派に対する最後の歯止めとなっていたのだが、何度も繰り返すようにそれが第一次世界大戦におけるイギリスの参戦で吹っ飛んでしまった。強硬派の「狂喜乱舞」がどれほど大きかったか、わかっていただけただろうか。

 こうなれば、まさに一瀉千里だ。第二次大隈内閣は一九一四年(大正3)四月十六日に成立していたが、同年七月二十八日に第一次世界大戦が勃発し、八月四日にイギリスがドイツに宣戦布告をすると、そのわずか四日後の八日には元老の承認を得て内閣は対独参戦を決定。翌九日には、新任の加藤高明外相が駐日イギリス大使を呼び参戦を通告した。

 じつは、「イギリスは日本の姿勢が積極的すぎることに恐怖を覚え、軍事行動開始を見合せるよう希望してきたが、12日にいたり、戦地局限を条件に日本の参戦を承認した」(『読める年表 7 明治大正編』 奈良本辰也監修 自由国民社刊)のである。「恐怖」というのは、いまも昔も諜報が得意なイギリスは、ここまでに私が述べたような日本の国内事情をすべて把握していたからだろう。

「待ってました」とばかりに日本が中国への領土的野望をむき出しにすること、それが「恐怖」ということだ。しかし、せっかく日本が参戦してくれるというのを断るのも得策では無い。日本が参戦しないとなれば、ドイツは膠州湾周辺を守備している陸海軍をヨーロッパ戦線へ回すからだ。だから、それを防ぐためにイギリスは「戦地局限」つまり主戦場では無い東アジアあるいは南洋諸島においてドイツ軍と戦うことを認めたのである。

 これは、まさに日本にとっては願ったりかなったりであった。主戦場であるヨーロッパ戦線に日本軍を派遣し、ドイツの精強な本軍と戦う必要は無いということだ。膠州湾あるいは南洋諸島に派遣されている、いわば「二軍」と戦えばいいということになる。

 じつは、井上以外の元老は参戦にもう少し慎重な態度を取るべき、という意見だった。戦争というのは、どちらが勝つかわからないからである。万一に備えて袁世凱とも融和をしたほうがいい、という見方もあった。だが、井上がすべて押し切った。

(第1391回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年9月1日号

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