岡田彰布監督(65)のもとで、阪神の18年ぶりのアレ(リーグ優勝)が見えてきた。ここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。岡田氏が「名将」となるまでを貴重証言で描き出す。2004年に阪神の監督を務めた岡田氏。2008年は開幕ダッシュに成功するも、北京五輪を挟んでチームは失速。13ゲームをひっくり返されて2位となり、岡田氏は阪神を去った──。【前後編の後編。前編から読む】
解任は“紙切れ1枚”
それから1年間の評論家生活を経て、2009年オフにオリックス監督として現場に復帰。託されたのは、過去10年で5回の最下位というお荷物チームの再建だった。
「阪神は来季もキツイ。オレは勝つよ」
古巣を意識してそう豪語するも3年連続Bクラスに終わり、2012年シーズン終了前に球団は岡田氏の休養を発表した。
事実上の解任だったが、紙切れ1枚で通告されただけだったという。その時の心境を岡田氏は著書『そら、そうよ』(宝島社刊)でこう綴っている。
〈試合に臨むために球場入りしたときに、紙を渡されて、それでおしまい。私には理解できないやり方で、ここに至った理由を聞くのも、もうアホらしく、何も聞かなかった〉
岡田氏にとって2度目の大きな屈辱だった。
オリックスでは二軍の活用もうまくいかなかった。一軍は大阪市の京セラで、二軍は神戸が本拠地のため視察が難しかったとも前出の著書で語っている。
北京で新井が故障した2008年と同じく、自分の力が及ばない外的要因が結果に影響した。もどかしい思いもあったはずだ。
だが、「その経験は決して無駄ではなかった」と第一次岡田阪神(2004~2008年)で編成部長としてチームを支えた黒田正宏氏は言う。
「オリックスの3年間はたしかに屈辱的なものだったでしょう。ただし、それが自分の野球を見つめ直す得難い経験となり、現在につながっているはずです」