「血河屍山の総攻撃」など必要無し
それでは、肝心の青島要塞に対する直接攻撃を朝日がどのように報じていたか見てみよう。この若宮の沈没記事と同じ紙面に、この戦いに「●眞先に火蓋を切つた ▽某艦長某大佐の實話」という見出しが躍っている。これは湾内の塔連島という拠点を占領したということであり、要塞本体とは関係無い。この戦いの中心は海軍第二艦隊による湾内封鎖では無く、あくまで山東半島の北側に上陸し南下して青島に向かった陸軍の要塞に対する直接攻撃である。
それは要塞を包囲する砲台陣地を構築し、多数の重砲を配置して徹底的に砲撃を加えるというものであった。その攻防がこの記事から四日後の『東京朝日新聞』十月十日付の紙面に、「●青島攻圍軍の經過」という表題で掲載されている。特派員「美土路春泥」の署名記事である。「春泥」の本名は美土路昌一。入社六年目の若手だが、後に朝日新聞社の社長になる人物だ。
記事は長文にわたるので要約すると、冒頭で敵の主要砲台であるイルチス砲台からわずか「二里」の攻囲軍総司令部にたどり着いた美土路は、「未だ滿を持して放たず重砲攻城砲の到着を待つて愈一擧敵の死命を制すべく血河屍山の總攻撃は愈本月二十五日前後を以て開始さるべし」と気勢を上げている。しかし、美土路は肝心なことがまるでわかっていない。その証拠が「血河屍山」というおどろおどろしい言葉である。
これは間違い無く日露戦争の旅順要塞攻撃をイメージしている。すでに述べたように、攻撃軍の総司令官である乃木希典大将は限られた期間内で要塞を陥落させる必要があったし、逆にそのために本来なら切り札となるはずの重砲が簡単には入手できなかった。戦場は旅順だけでは無かったからである。だからこそ歩兵による強行突撃という、兵士を多数犠牲にする作戦を取らざるを得なかった。その結果、争奪の地となった二〇三高地は屍が累々と並び多数の血が流れた。文字どおり「血河屍山」となったのである。
しかし、この青島要塞攻防戦ではそんなことをする必要がまるで無かった。主戦場はここだけだし、敵の援軍が来るはずも無い。だからじっくり時間をかけ、歩兵の突撃では無く砲兵の砲撃で攻撃すればよい。つまり、最初から「血河屍山の総攻撃」など必要無いし、結果的にそうなることもあり得なかったのである。それが総司令官神尾光臣中将の当初からの作戦だった。それなのにそういう言葉を使うということは、要するになにもわかっていないということである。
『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも述べたように、朝日に限らず当時の新聞記者たちの多くは、きわめて短期間で旅順を陥落させたと恐れた敵将クロパトキンのように乃木を名将として評価せず、一万五千人もの日本兵を「犬死に」させた愚将として軽蔑していた。にもかかわらず、乃木が明治天皇に殉死すると「嗚呼、忠臣乃木大将」と礼賛し、そのことによって旅順攻防戦を「聖戦」にしてしまった。
だからこそ状況を無視した「血河屍山の総攻撃」などという「美辞麗句」が出てくるわけで、もうおわかりだろうが、こういう見方は日露戦争終了後に締結されたポーツマス条約が日本にとっては大きな成果であったにもかかわらず、「屈辱講和」などと事実とまったく異なる報道をし大衆を扇動することによって日比谷焼打事件を起こした姿勢にも通ずるものだ。
しかし、実際の総攻撃は美土路が予測した十月二十五日前後では無く、三十一日に行なわれた。じつは、これよりずっと早い時期に総攻撃が行なわれると、新聞だけで無く東京の陸軍参謀本部も予測していた。だがそうはならなかったのは、異常気象とも言ってもいい天候不順があったからである。神尾率いる第十八師団は九州長崎から海を渡り山東半島の北にある龍口に上陸したのだが、ここに至るまですでに九州で暴風雨によって鉄道路線が寸断されるという「困難」に悩まされた。そして、じつは上陸してからも同じような困難に遭遇した。ここは美土路の文章を借りると、
〈然るに我軍は更に不可抗力の第二の困難に遭遇せり運送船は豫定の如く第一期上陸隊を乘せて豫定の如く九月二日龍口に到着直に上陸を開始せり。此時に際して何等敵軍の抵抗を受けざりしも此處にても山東百年來と稱する暴風雨の爲上陸に非常の困難を生じ時には全然上陸する能はざるの日もあり。夫が爲に我軍の全部龍口に上陸を完了する迄に凡そ十數日間遲延を生ずるの已むなきに至れり〉
(引用前掲紙)
この記事の「山東百年來と稱する暴風雨」というところは活字を大きくしてある。よほど印象的な大豪雨だったのだろう。そしてその猛威は上陸してからも収まらなかった。
〈加ふるに一度上陸を終りて前進を開始するや連日の暴風雨の爲めに濁水は山東の野に漲り時には腰、甚だしきに至つては路上水深乳部に逹するに至る〉
(引用前掲紙)
なんと、道路を歩いているはずなのに水が胸のところまで来たと言うのである。当然、橋なども流され肝心な糧食の輸送もままならない。こうしたなか、騎兵はまったく難渋しついに水馬術も使わざるを得なかった、という。水馬というのは戦国時代からある武芸の一つで、武士が馬に乗ったまま馬を泳がせることによって川を渡る技術だが、大正時代になっても日本騎兵に継承されていたようだ。