とにかく、最後尾から進軍した神尾司令官直属の部隊ですら糧食の補給がままならず、「數日間兵卒と同一の食事を取りつゝ前進を繼續せり」という有様だった。その内容は「一日に米二合を給せらるゝのみにて他は麥粉二合、粟二合、甘薯百匁宛を給して一日の糧とするに至れり」というものだった。ちなみに甘薯はサツマイモで、百匁は三百七十五グラムである。
ドイツ軍に妨害されることを恐れて山東半島北側の龍口から上陸したにもかかわらず、思わぬ「伏兵」の大豪雨に散々痛めつけられた陸軍は、方針を転換して一部部隊を南の労山湾から上陸させることにした。海軍の第二艦隊が湾を封鎖しているうえに、すでに述べたように援軍が来るはずも無く、上陸を妨害される心配は無い。唯一の障害は若宮を戦闘不能にした湾内にバラまかれた機雷だが、このころになると海軍の哨戒活動が進み湾内の航行に支障は無くなっていた。
陸軍の将兵を満載した輸送船が触雷して沈没するなどという可能性はゼロになったということだ。そこで陸軍は、龍口上陸部隊と労山上陸部隊を要塞付近の即墨(地名)で合流させた。九月二十四日のことで、九月二日に最初の部隊が上陸してからすでに三週間が経過していたが、二十六日午前六時には夜明けとともに進軍を開始した。もちろん目的は要塞への「歩兵突撃」では無く、重砲を設置できる要塞周辺の拠点を占領することだ。
目標拠点は、日露戦争の二〇三高地にあたる青島要塞を砲撃可能な浮山と孤山だったが、ドイツ軍はこの地点を死守する気は毛頭無かった。そもそも日本軍は陸海合わせて約二万三千人もいる(このほかに同盟国のイギリスから約二千人の応援が来ていた)。ドイツ軍は孤立無援で明確では無いが、兵員数は一万人を下回っていたようだ。これでは兵力を分散するわけにはいかない。青島要塞への「籠城策」を取るしかなかった。
これに対し、日本軍は余裕綽々である。何度も言うように、焦る必要はまったく無い。そこで神尾中将は全軍を挙げて強力な砲台の構築を開始した。ところが、またしても大豪雨が彼らを悩ませたのである。いかなる場所にせよ土木工事の最大の敵は大雨である。また重砲というきわめて重い「荷物」を砲台に設置するということは、坂道を運搬することでもある。高いところにあるから「砲台」なのだが、お気づきのようにこうした作業にもっとも障害となるのも大雨である。したがって作業日程は大幅に遅延した。
そういう現地の事情をまったく無視すれば、日本軍は九月の頭に上陸を果たしたのに十月が終わりに近づいても一向に総攻撃を始めないし、当然青島要塞を陥落させられない。いったいなにをしているのか、という見方が出てきても不思議は無い。もちろん、それはあくまでも「山東百年來と稱する暴風雨」という事情を無視すれば、の話である。ところが、正確に物事を伝えるのがジャーナリストの使命であるはずなのに、この世の中にはそうでは無い連中もいる。
(第1394回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年9月29日号