ところが、それが常識になっていないということは、歴史教育がいかに歪んでいるかということだ。高校生にこういう思いを抱かせた教育者は、「平和こそ絶対であり、侵略者に無条件降伏しようが、その結果植民地になろうが、人を殺さなくて済むのだからそれでよいではないか」と思っているのだろう。そこが愚かの極みであって、侵略者に自国の占領など許してしまえば、次は無理やり武器を持たされて侵略の尖兵にされてしまうのである。

 もう一度言うが、それが人類の常識であり、だからこそウクライナのゼレンスキー大統領も抵抗しているのである。もし彼が「ウクライナ人を一人も殺したくない」ということでロシアに全面降伏したらどうなるか? 当然それを受け入れられないウクライナ人はパルチザンとなってゲリラ戦を展開するだろう。では、それを掃討するのは誰の仕事になるか? もうおわかりだろう、死に物狂いの抵抗に遭いたくないロシア軍は、降伏してきた旧ウクライナ軍にそれをやらせるだろう。そのときになって「そんなことは絶対にしたくない」と叫んでも手遅れだ。

 もう一度言うが、家族が全員人質に取られているのである。占領軍の命令には絶対に従わざるを得ない。私はもう老人だから、あるいは女性だから侵略に加担することは無いと思っている人がいるかもしれないが、戦争というのは直接武器を持って戦うだけでは無い。兵站もあるし、武器の製造部門もある。現に、元寇のときに使われた軍船は全部高麗製だった。

 芸術家だから関係無いと思うことも間違いで、作曲家なら軍歌を作らされ、漫画家なら侵略を正当化した作品を描かされるだろう。家族がいない人間でも、「お前が従わなければ町内の人間を全員収容所に送るぞ」と言われたらどうするか。それでも抵抗するのか。そこで抵抗するくらいならば、そもそも最初に抵抗しておくほうが結果的には平和を維持し戦争を助長しないことがおわかりだろう。こんな常識が定着しない日本は、まことに嘆かわしいと言わざるを得ない。

 さて、話を戻そう。日本軍の宿痾とも言うべき「兵站部門の蔑視」は、『葉隠』以来の「主君(明治以降は天皇)のために戦死することこそ真の忠義であり、御奉公である」という「思想」が原因である。これは、これ以降の大正史そして昭和史を陰で動かしたじつに重大な思想だということがおわかりだろうか。ここで、明治時代、日清戦争に勝つために盛んに歌われた軍歌『元寇』の一節を再びご紹介しよう。問題は三番である。

〈こころ筑紫の海に 浪押し分けて往く
ますら猛夫の身 仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし〉

「死して護国の鬼」となるということは、具体的には靖国神社に祀られる軍神となるということだが、ここで注意すべきはそう「なれる」のは軍人だけで、政治家や外交官あるいは官僚などは基本的になれないということである。これを軍人の側から見れば、政治家や外交官がどんなに天皇あるいは国家に忠義を尽くしていると主張しても、「われわれの忠義にははるかに及ばない。われわれは自分の命を捧げるところまで奉公しているのだ」ということにもなる。要するに、「政治家、外交官が忠臣ならば、チョウチョ・トンボも鳥のうち」にもなってしまう。つまりは「軍人だけが本当の忠臣であり、他はニセモノだ」という恐るべき結論になってしまうのである。

 この「思想」は、当然ながら陸軍内部においても重大な影響があった。「死して護国の鬼」にならずとも済む勝利、具体的に言えば青島要塞攻略戦において総司令官の神尾光臣中将が取った戦死者を極力抑えたうえで見事要塞を陥落させたような勝利は、本来大絶賛されるべきものであるはずなのに、むしろ乃木希典のやり方のほうが評価されたということだ。

 じつは神尾中将の女婿つまり次女安子の夫は、日本文学史に名を残す小説家有島武郎であり、二人の間には三人の子が生まれている。長男は黒澤明監督の映画『羅生門』にも出演した俳優、森雅之だ。安子が若くして死んでしまったので有島は後に人妻と心中してこの世を去るが、特筆すべきは神尾は娘が小説家と結婚するのを許したということだ。この時代はまだまだ小説家という職業に偏見のあった時代で、とくに軍人は「文弱の徒」として嫌っていた。にもかかわらず結婚を許したというのは、そういう文化に理解があったということだ。神尾のような人物が名将としてもてはやされていたら、その後の陸軍の動向もかなり変わったかもしれない。

 しかし、そうはならなかった。理由は今回述べたとおりである。

(第1402回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年12月15日号

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