箱根駅伝ができないなら……学生達は青梅へ走った
靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会について語るには、少し時間を遡る必要がある。
日中戦争の最中であった1940年(昭和15年)の1月、第21回箱根駅伝が開催された。その後、箱根駅伝は中止に追い込まれる。箱根駅伝のコースである第一京浜国道が軍需物資の輸送に使われていたため使用許可が下りなかったこと、大会の後援であった報知新聞社の経営難が原因とされる。
箱根駅伝を失った学生達は、それでもなんとか駅伝をやろうと代替大会の開催を決める。その名も「青梅駅伝」である。明治神宮外苑プール前をスタートし、現在の東京都青梅市の熊野神社で折り返し、再び外苑プール前に戻ってくる駅伝だ。
第1回青梅駅伝は日本大学が優勝している。中止に追い込まれる直前の第21回大会も日大が優勝しており、第16回大会から第19回大会までは4連覇と、驚異的な強さを見せていた。
1941年(昭和16年)1月に第1回青梅駅伝を開催した学生達だが、同じ年の11月に第2回青梅駅伝を行う。
順当に行けば翌年1月の開催のはずなのに、何故11月に開催したのか? これにもまた、戦争が影響している。この年の10月、学徒動員のための繰り上げ卒業が発表される。大学の修業年限が3ヶ月短縮され、1942年(昭和17年)の3月卒業予定の学生が、前年の1941年(昭和16年)12月に卒業させられることになった。青梅駅伝を1月に開催していては、12月卒業の学生が走れない。だから、11月に第2回青梅駅伝を開催する必要があったのだ。
第2回青梅駅伝から8日後の1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まる。