【書評】『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』(中川右介/幻冬舎新書/882円)
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
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「第九」と書いて、「だいく」と読む。ベートーベンの交響曲第9番「合唱」を、われわれはそうよびならわしてきた。マーラーやブルックナーがつくった九番目の交響曲を、「だいく」と言うことはない。シューベルトのそれも、同様である。「だいく」という特権的な通称は、ただひとつベートーベンの「合唱」にだけあたえられてきた。
EUは、きたるべきヨーロッパ連合の国歌に、「第九」の第四楽章をあてている。ベルリンの壁が崩壊したことをいわう音楽も、これである。「第九」は、ヒトラーの誕生日をいわう楽曲でもあった。にもかかわらず、いまや人類共有の音楽遺産になっている。CDの収録時間も、これが一枚におさまることを目安としてきめられたのである。
いっぽう、作曲者のベートーベンは、この曲をけっこう打算的にとらえていた。当時の民衆や王侯貴族を相手に、小商いをもくろんでいる。初演のギャラはいくらになるのかな。譜面は、どのくらいに売れるだろう。誰にささげれば、いちばん高い献呈料がかせげるのか、等々と。なお、この献呈料という集金システムを最初にひねりだしたのは、楽聖ベートーベンであったという。
初演の女性独唱者には、二人の美人歌手がえらばれている。抜擢したのは作曲者じしんであった。聴覚をうしない耳の聞こえなくなっていた楽聖は、どうしてこの二人にきめたのか。まさか、顔でえらんだのでは……。
一時間以上におよぶこの曲をよろこぶ興行主は、当初あまりいなかったらしい。演じられても、第四楽章の「合唱」ははぶかれることが多かったという。「歓喜の歌」ぬきで「第九」をやるなんて、考えられない。あれこそが、クライマックスなのに。と、そううけとめるのは、後世のとらえ方であることが、よくわかる。
あまりかがやかしくもない出自をもつ曲は、いかにして人類の至宝となったのか。その筋道を、この本はおしえてくれる。
※週刊ポスト2012年3月2日号