今年は全日本プロレス・新日本プロレスの40周年。それぞれその帝国を築いたジャイアント馬場とアントニオ猪木は40年前の1972年、袂を分かった。以来30年にもわたって「宿命のライバル」となった二人には、知られざるドラマがあった。『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)などの著者である、ノンフィクションライターの柳澤健氏が迫る。
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一流レスラーに囲まれ、NWAという権威に常に守られる馬場を凌駕するために、猪木はボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリと異種格闘技戦を戦った。
プロレスをするつもりで来日したアリは、図らずも真剣勝負を戦う羽目に陥った。
「アリは日本にきてかなり早いうちに『いつ試合の練習をするんだ』と言いました。猪木さん側が『とんでもない。そんなものはやらない。これはエキシビションじゃない、真剣勝負なんだ』と言うと、(アリ側は)にわかにルールにうるさくなったんです」(通訳のケン田島)
NWAより遥かに大きな権威であるボクシングヘビー級世界王者を倒すこと。それこそがアントニオ猪木の望みだった。
猪木はタックルができず、アリもグラウンドを避けた。その結果、退屈な試合となり、猪木は世界中から非難を浴びた。だが、この試合の先にUWFやPRIDEが存在することは誰にも否定できない。日本の総合格闘技の源流は、確かにアントニオ猪木にある。
憎むべき敵であるはずの馬場と猪木。しかし、お互いの実力と苦労を誰よりも知るふたりは、時々マスコミに隠れて会食し、情報を交換していた。
食事中、猪木は年上の馬場に大いに敬意を払い、マネージャーの新間寿を驚かせた。
馬場もまた、全日本プロレスの若手レスラー渕正信らに「猪木の客をつかむ力は素晴らしい。お前たちも見習え」と命じていた。
プロレスは社会の鏡であり、優れたプロレスラーは人々の願望を体現する。
太平洋戦争に大敗した日本人は、アメリカに復讐したいという潜在的な願望を持っている。その願望をリング上で実現させたからこそ、人々は力道山に熱狂的な声援を送った。
力道山の死後にヒーローとなったのはジャイアント馬場だった。
本場アメリカからやってきた一流レスラーと日本の一流レスラーが戦い、日本が勝つというジャイアント馬場の物語は、戦争で負けたアメリカを経済で上回ろうとする日本の願望を体現していた。
一方、インドやパキスタンのレスラー、オランダの柔道家と戦うアントニオ猪木の物語にアメリカの影はない。世界は広い、アメリカ以外の国は無数にある。私たちはアメリカに従属するのではなく、独自の道を行くべきである、と猪木のプロレスは主張した。
馬場と猪木の戦いは、対米屈従と自主独立の間で葛藤する日本の自画像だったからこそ、多くの人々の支持を得たのである。
※週刊ポスト2012年4月13日号