焚書行為の舞台のひとつは、帝国図書館(現・国会図書館)だった。当時の帝国図書館館長の回想記の記述は衝撃的だった。そこには「出版物追放のための小委員会」に、外務省幹部や東京大学文学部の助教授らが参加していたことが記されていた。
東京大学文学部の委員が具体的にどう関与したのかは不明だが、日本人が焚書図書選定に関わったことは確かだ。仮に日本の知識人の協力がなければ、大量の本から焚書すべきものを選ぶことなどできない。当時は、公文書に残らない秘密会議として行われた。まさに日本とGHQの密約である。
この焚書という忌まわしい行為は、昭和23(1948)年7月からは全国展開されるようになり、昭和26(1951)年まで続いた。
それは、民間の一般家庭や図書館の書物は没収対象にしないものの、書店や出版社からだけでなく、すべての公共ルートから探し出して廃棄する方針で行われた。国民に知られずに秘密裏に焚書を完遂するためである。
なぜならGHQは、書物の没収は文明社会がやってはならない歴史破壊であることを知っていたからだ。自由と民主主義を謳うアメリカが、言論の自由を廃する行為を行っていたことが国民に知られれば、占領政策がままならないとの認識があったのである。
焚書の実行にも多くの日本人が関わった。最初は警察が本の没収を行い、昭和23年6月からはこの業務は文部省に移管され、その後は文部次官通達によって都道府県知事が責任者となって進められた。通達は、知事に対して警察と協力して流通している対象書物はことごとく押収し、輸送中のものにまで目を光らせよと厳命した。そして、没収を拒んだ者や没収者に危害を加えようとする者を罰するとしたほど徹底的であった。
※SAPIO2015年9月号