新幹線建設は大きな雇用を生み、高速鉄道は経済発展の礎になる。島が慧眼だったのは、蒸気機関車全盛の時代にあって、電動モーターを各車両に配置する動力分散方式の高速鉄道の開発を目指したことだ。
重い機関車が客車を牽引する方式に比べ、動力分散方式の電車は車両が軽くレールへの負担が小さいので、建設コストが安い。上り・下りで機関車を切り替える必要もないから、過密ダイヤに対応できる。排煙もなくクリーンだ。
しかし、当時の電車は揺れと騒音がひどく、乗客からは短距離しか乗れないと不評で、高速鉄道などつくれるわけがないと考えられていた。
最大の敵は「振動」だった。
敗戦からわずか4か月後の1945年12月、島は鉄道技術研究所の嘱託研究員、松平精に声をかけた。
「ぜひ、あなたの航空技術の知識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきたい」(『新幹線をつくった男』より)
松平は、終戦まで海軍航空技術廠で航空機の振動を抑える研究をしていた。日本軍の解体後、旧軍人の受け皿となった国鉄で、新幹線技術の理論的研究の中心になった鉄道技術研究所(鉄研)には、1000人もの旧軍技術者が集められていた。松平もその一人だった。
日米戦争の緒戦において、零戦が米軍機を圧倒していたのは誰もが知るところで、戦争末期には物量の差で押し切られたものの航空技術で日本は決してアメリカに負けていたわけではない。GHQはそんな日本の航空技術を恐れ、航空機の研究・設計・製造を禁止した。航空機技術者にとっては苦しい措置だったが、彼らは逆に、その不遇をはね返すべく鉄道技術へと転化させたのだ。
※SAPIO2015年10月号