◆「日章丸、万歳」
だがこの計画にはリスクがあった。戦後のイランはかつての宗主国・英国資本のもと政府にも国民にも利潤が行き渡らない状況だった。
そこでイランは石油国有化を表明。それに怒った英国はペルシャ湾に艦隊を派遣し封鎖、イラン石油を買おうとするタンカーには実力行使も辞さない構えだった。行けば国際問題になるだろう。拿捕、機雷による沈没の危険性もあった。
それでも出光は日章丸の派遣を決断した。英国資本による搾取の歴史と経済封鎖の実状を知るにつけ、むしろ大義はイラン側にあると判断したのだった。ペルシャ湾に向かう日章丸の船員に送った檄文で出光はこう述べた。
「ここにわが国は初めて石油大資源と直結した、確固不動たる石油国策の基礎を射止めるのである」
政府が政策を打ち出せないのなら、自らが実証してみせようと言わんばかりだった。
1953年4月、日章丸が英国の目を盗んでイランのアバダンに入港すると、外電を通じてこの壮挙が世界中に知れ渡り大騒ぎになった。敗戦国日本の一企業が、当時世界2位の海軍力を誇る英国に喧嘩を売っているのだ。記者団が殺到する中、出光は悠揚迫らず事の成り行きを見ていた。
石油で満杯になった日章丸が危険な航海を終えて川崎港に帰着すると、港には「日章丸、万歳」の声が満ちていた。