昭和天皇一覧

【昭和天皇】に関するニュースを集めたページです。

「沖縄には、今なお様々な課題が残されています」と、陛下は沖縄の今後についても言及された(宮内庁提供)
沖縄本土復帰50周年 昭和、平成、令和と皇室で受け継がれる沖縄への祈り
 沖縄県が本土に復帰してから、5月15日で50年。その節目に合わせて行われた「沖縄復帰50周年記念式典」に天皇皇后両陛下がオンラインで出席された。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』の思いを深められたと伺っています」 天皇陛下は式典で“命こそ宝”という意味の方言を用いながら、沖縄の人々へお言葉を寄せられた。「忘れてはならない4つの日」の1つに、沖縄慰霊の日(6月23日)を掲げるほどに、皇室にとって沖縄は思い入れの深い場所でもある。次ページからは、昭和・平成・令和と受け継がれてきた、沖縄への「祈りの歩み」を振り返る。【昭和天皇・香淳皇后】 いまから50年前の1972年5月15日、東京・日本武道館で行われた「沖縄復帰記念式典」に出席された昭和天皇と香淳皇后。沖縄訪問を悲願としていた昭和天皇だったが、体調を崩されその願いは叶わず。「祈りの旅」は上皇陛下へと受け継がれることとなる。【上皇ご夫妻】 本土返還から3年後に上皇ご夫妻が初めて沖縄を訪問された。戦争での遺族も多く複雑な感情の残る時代だったが、ご夫妻は“たとえ石を投げられたっていい”と沖縄入りを決めたという。「ひめゆりの塔」で献花された際、過激派の青年がご夫妻に向かって火炎瓶を投げつける事件があったが、退避され事なきを得、以後も現地の施設訪問を続けられた。 前年に「ひめゆりの塔事件」がありながらも、ご夫妻は翌年も続けて沖縄入りを果たされた。写真は沖縄海洋博覧会の閉会式の折に、伊江島芳魂之塔で黙祷を捧げられた際のもの。 沖縄・糸満市にある「沖縄平和祈念堂」を訪問され、歓迎の人たちにお言葉をかけられるご夫妻。10年にわたって訪問を続けられ、現地の人の受け入れ方にも変化が見て取れる。「沖縄平和祈念堂」を訪問された際、体調を崩され訪問が叶わなかった昭和天皇のお言葉を、皇太子(当時)として代読された。 平成の御代がわりを経て、天皇皇后として初めて沖縄を訪問されたご夫妻。名護厚生園(名護市)で入園者に声を掛けられたときの写真や首里城(那覇市)を訪れ、正殿内の「御差床(うさすか)」と呼ばれる御座所をご覧になったときの写真がある。 80才近くになられても沖縄訪問を続けられたご夫妻。糸満市にある「国立沖縄戦没者墓苑」を訪れ、犠牲者に白菊の花をささげられた。遺族らには「お体を大切に」などのお声をかけられたという。 平成の天皇皇后として最後となった沖縄訪問は退位の約1年前の2018年3月のこと。退位の直前まで訪問を続けられ、ご夫妻の沖縄訪問は計11回にも及んだ。【天皇ご一家】 天皇陛下が初めて沖縄を訪問されたのは、1987年のこと。今年5月15日の記念式典では「復帰から15年を経た昭和62年、国民体育大会夏季大会の折に初めて沖縄を訪れました。その当時と比べても、沖縄は発展を遂げ、県民生活も向上したと伺います」と述べられた。 沖縄が本土復帰25周年を迎えたタイミングで皇太子ご夫妻としてご訪問。おふたりがそろって沖縄を訪問されるのは初めてのことだった。写真は「平和祈念公園」内の「平和の礎(いしじ)」を前に慰霊された際のもの。 皇太子となられてからも慰霊を続けられた陛下。写真は国立沖縄戦没者墓苑で供花を終えられた際のもの。「豆記者」として派遣された沖縄と北海道の小中学生を東宮御所にお招きになり、歓談されたご一家。当時の愛子さまは中学3年生。同世代の記者たちと話し、笑顔を見せられた。【秋篠宮ご一家】 秋篠宮家ご長男悠仁さまは小学1年生のときに、試験休みを利用して沖縄初訪問。沖縄戦で亡くなった24万人超の名前が出身地別に刻まれた「平和の礎」を前に、悠仁さまは「東京都はどこ?」と尋ね、秋篠宮ご夫妻と一緒に探すなど熱心にご覧になっていた。 ご一家で沖縄の地上戦で犠牲になった人々を追悼する「地上戦と子どもたち追悼の集い」(東京・新宿)にご出席。佳子さまは会の終了後、関係者一人ひとりに「ありがとうございました」と話し掛けられていたという。「全国育樹祭」に合わせてご夫妻で沖縄ご訪問。令和の御代がわりを経て、皇嗣同妃両殿下となられてから初めてのことで、現地の豆記者とのご接見や国立沖縄戦没者墓苑へのご訪問も果たされた。撮影/雑誌協会代表取材 写真/宮内庁提供、時事通信社、共同通信社※女性セブン2022年6月2日号
2022.05.20 11:00
女性セブン
(宮内庁提供)
上皇ご夫妻がお住まいになる仙洞御所 思い出が詰まった場所の笑顔あふれる物語
 平成から令和への御代がわりに合わせて、お住まいの“入れ替わり”が進められていた天皇ご一家と上皇ご夫妻。引っ越し作業も終わり、天皇ご一家は皇居の「御所」に、上皇ご夫妻は赤坂御用地の「仙洞御所」にお住まいになる。 上皇陛下の皇太子時代に「東宮御所(皇太子のお住まい)」として誕生したこの建物は、平成の御代がわりに伴い「赤坂御所」と呼び名を変えた。そして、いまの天皇陛下が皇太子時代に住まわれるとまた東宮御所に、そして令和の御代がわりに伴い赤坂御所と改称された。 仙洞御所は「退位した天皇(上皇)の御所」という意味を持つ。上皇ご夫妻は、皇太子ご夫妻としてお子さま方と暮らした “思い出の地”に、今度は上皇ご夫妻としてお戻りになるのだ。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんが言う。「昭和時代、上皇上皇后両陛下は、お住まいで音楽会を開いたり、テニスや卓球をされたりと、家庭的な暮らしを大事にされていました。お子さま方をお育てになった場所ですし、思い出がたくさんおありでしょうから、転居を楽しみにされていたでしょうね」 ご家族の教育の場にも、団らんの場にもなった仙洞御所。その誕生から今日までを写真でプレーバックする。●1960年 天皇陛下ご誕生 写真はご誕生から4か月が経過した頃。生後120日前後で行われ、一般の「お食初め」にあたる「お箸初」を前に美智子さまの腕に抱かれ、笑顔を浮かべられている。●1960年 新東宮御所完成 現在の上皇ご夫妻のお住まいとして建設され、おふたりの寝室、書斎、食堂、美智子さま用のキッチンのほか、子供部屋も2室用意されていた。●1960年 昭和天皇新東宮御所ご訪問 昭和天皇と香淳皇后が新東宮御所を訪れた。玄関前で撮影されたこの写真は、皇室3世代が一堂に会された瞬間となった。●1961年 キッチンに立つ美智子さま 当時27才の美智子さまは、ご自身で料理の腕を振るわれた。並んだ食材にエプロン姿の立ち振る舞いはまさに“日本の主婦”の鑑のよう。●1964年 天皇陛下4才のお誕生日 お誕生日を迎えるにあたって撮影され、和やかな雰囲気が伝わってくる。上皇陛下と天皇陛下が腕相撲で力比べされている姿を見守る美智子さまの表情がなんとも幸せそう。●1966年 お庭で綱引き 天皇陛下6才のお誕生日の翌日に学習院幼稚園の友達80人を東宮御所に招待。庭で綱引きをみんなで行い、陛下も力一杯に綱を引かれていた。●1969年 黒田清子さん「お箸初」を迎える 2005年に黒田慶樹さんと結婚した黒田清子さんは、まだ生まれて数か月の頃。ごきげんな様子の秋篠宮さまとともに乳母車に乗ってすやすやと眠っている。●1970年 上皇陛下37才のお誕生日 和室でカルタ大会に向けてご一家で熱心に練習中。正座で我先にとカルタを取り合う姿はまさに真剣そのもの。●1973年 天皇陛下13才のお誕生日 テニスコートで練習をされる天皇陛下と上皇陛下。上皇陛下は練習が終わった後も熱心にアドバイスをされていた。●1973年 黒田清子さん4才に お庭で満開の桜の下で、美智子さまと一緒にままごとをする清子さん。人形をベッドに寝かせ、ピアノを弾いたりと楽しそうなご様子。●1982年 ご夫妻でテニス かつて、“テニスコートの恋”といわれたおふたりの出会いのきっかけでもあるテニス。48才になられたばかりの美智子さまは上皇陛下と一緒に汗を流された。●1984年 上皇ご夫妻銀婚式 ご結婚から25年が経ち、銀婚式を迎えられた上皇ご夫妻。写真は内宴に合わせて、お庭で撮られた一枚。左は、昭和天皇ご夫妻。●1994年 天皇皇后両陛下が東宮御所へお引っ越し 東宮仮御所にお住まいだった天皇皇后両陛下が、同じ赤坂御用地内の東宮御所へお引っ越しされた。花に囲まれながら散歩される姿がとっても幸せそう。●2002年 天皇ご一家記念写真 天皇皇后両陛下に愛子さま、秋篠宮ご夫妻に、眞子さまと佳子さまが誕生された。天皇ご一家の記念写真の人数もずいぶんと賑やかになっている。●2002年 ご誕生から3か月の愛子さま 談話室での雅子さまと愛子さまのツーショット。体重3102gで誕生され、お祝いの記帳は誕生日と翌日で12万人にものぼった。●2003年  愛子さま1才 両陛下が愛子さまをはさんで談笑されている。愛子さまが、お庭に咲いている花々を指さし、興味津々のご様子。●2004年 お庭で遊ばれる愛子さま 運動神経抜群の両陛下の血を受け継ぎ、愛子さまも木登りに挑戦。支えられながらも木につかまるお姿からたくましさが感じられる。●2004年 愛子さま3才 3才の誕生日用に撮影され、手を上げながらニッコリと微笑まれている。この頃から雅子さまと外出される機会も増え、健やかに成長されていた。●2013年 天皇陛下スペインからご帰国 約400年前から日本との交流が続くスペインを訪問され、帰国された天皇陛下。雅子さまと愛子さまに出迎えられ、にこやかな表情を浮かべられている。●2013年 愛子さま12才のお誕生日 小学6年生になられた愛子さまは天皇陛下と歴史のお勉強。学校では放送委員をお務めになるなど充実の日々過ごされていた。●2015年 天皇皇后両陛下トンガから帰国 両陛下でトンガを訪れた後には、愛子さまの出迎えを受けられた。陛下はこれまで3度トンガを訪問されており、今年1月に海底火山が噴火し被害を受けた際には、お見舞いの電報を送られた。●2018年 銀婚式を迎えられた天皇皇后両陛下 愛犬・由莉を連れてお庭で談笑されている。銀婚式に公表された文書では夫婦円満の秘訣を「笑いを生活の中で忘れないこと」とつづられている。●2019年 祝賀御列の儀 天皇が広く国民に即位を披露し、祝福を受けられる「祝賀御列の儀」終え赤坂御所に到着された天皇皇后両陛下。陛下はえんび服、雅子さまはローブ・デコルテの正装で臨まれた。●2020年 ご進講 新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ、ご公務もオンラインが中心になられていた。専門家から説明を受けられる“ご進講”で学ばれる日々を送られていた。●2022年 新年用ご一家写真 昨年、愛子さまは成年皇族になられた。天皇陛下と同じ学習院大学で勉学に励まれる姿を、天皇皇后両陛下は頼もしく思われていることだろう。撮影/雑誌協会代表取材 写真/時事通信社、共同通信社、宮内庁提供※女性セブン2022年5月12・19日号
2022.05.01 16:00
女性セブン
『拝謁記1 昭和天皇拝謁記――初代宮内庁長官田島道治の記録』著・田島道治
【書評】掛け値なしの昭和史の超一流資料 昭和天皇と宮内庁長官の対話録
【書評】『拝謁記1 昭和天皇拝謁記――初代宮内庁長官田島道治の記録』/田島道治・著/岩波書店/3300円【評者】平山周吉(雑文家) 掛け値なしの昭和史の超一級史料である。原本を初めて手にしたNHKの記者も、本書の編集委員である研究者も、衝撃と驚きの声を挙げているが、ページをめくる私も随所で驚きと、さらに戸惑いに襲われた。昭和史の書き換えは本書の完結と同時に必至だろう。 ここまで具体的に昭和天皇と田島道治宮内庁長官の二人だけの会話が克明に記されているとは。田島は後にソニー会長となるのだが、この時点でテープレコーダーが存在していたと錯覚してしまう。息遣いや表情までが浮かんでくる対話録なのだ。この『昭和天皇拝謁記』をもとに作られたNHKの番組での、田島役の橋爪功と天皇役の片岡孝太郎―二人の苦衷の名演技は、これだけの材料があったからかと納得させられる。 宮廷の外部から招聘された憂国の銀行家は宮中の意識改革、経済改革、それから昭和天皇の意識改造を担わされる。記録は宮内府長官となった昭和二十三年(一九四八)六月の八ヶ月後に始まる。やっと天皇との信頼関係が構築されたからなのだろう。記述は徐々に詳細になる。私が一番驚いたのは昭和二十四年九月七日だ。「[終戦時の]自決者は大体戦争犯罪人[に]なるのがいやで自決したとの仰せ。田中静壱と阿南[惟幾]だけは別、本庄[繁]も杉山[元]も皆戦犯となることを避けてだとの仰せ」 遺族が耳にしたら何と思うだろうか、それこそ「胸が痛む」。この後、東京裁判の被告たちへの容赦ない寸評が続く。十二月十九日の感激する田島の「落涙滂沱」と併せ味わうべき「御言葉」である。「小室圭問題」が頭にちらつくせいか、昭和天皇の皇女孝宮と鷹司平通との結婚、皇室の財政、内廷費で苦心する田島の苦労も身に沁みて読んでしまった。加藤恭子『田島道治―昭和に「奉公」した生涯』によると、田島は長官としての交際費を捻出するために、田園調布や成城の土地を全部売った。孝宮の結婚が十六年後に不幸な結末を迎えると、責任を感じ、お詫びに参上している。※週刊ポスト2022年2月4日号
2022.01.30 16:00
週刊ポスト
9年越しの愛を貫いた眞子さん(時事通信フォト)
眞子さん“個人の意志”を尊重した結婚 今後の皇室全体に及ぼす影響
 夫となった小室圭さんがニューヨーク州の司法試験で不合格となり、早くも渡米生活に暗雲が垂れ込めた眞子さん。結婚関連の儀式も一時金も辞退したその決断が、図らずも皇室の分断を招いている──。「私のことを思い静かに心配してくださった方々や、事実に基づかない情報に惑わされず私と圭さんを変わらずに応援してくださった方々に、感謝しております」 10月26日の結婚会見で、眞子さんは真っ直ぐ前を見つめてこう話した。宮内庁担当記者が語る。「日本国民の象徴としての皇族にあって、『変わらずに応援してくださった方』と限定して感謝を述べた眞子さんの言葉からは、“個人”としての強い意思が感じられました」 小室圭さんの母・佳代さんの金銭トラブル報道など、激しい逆風に晒されながらも、9年越しの愛を貫いた眞子さん。だが、この結婚は皇族のものとしてはあまりにも異例ずくめだった。 眞子さんは約1億4000万円の「結婚一時金」を辞退したが、一時金は皇室経済法が〈皇族であった者としての品位保持に充てるため〉に支給すると定めている。結婚で皇族を離脱する女性が辞退するのは、同制度ができて以来初めてのことだ。 また、女性皇族が結婚する場合、結納にあたる「納采の儀」や結婚の日取りを伝える「告期の儀」など様々な儀式があるが、眞子さんの結婚では行なわれなかった。 とくに関係者を驚かせたのが、天皇皇后両陛下にお別れの挨拶をする「朝見の儀」が行なわれなかったことだ。 他の儀式と異なり、朝見の儀は両陛下が直接関わるもの。『女性セブン』(2021年11月4日号)によれば、天皇陛下の「執り行なうべき」との意向を、秋篠宮さまが押し切る形で儀式の不開催が決まったとしている。ベテラン宮内庁担当記者が語る。「報道が事実だとすれば、天皇家の意向が秋篠宮家には及ばないことを示しています。そして両家の分断は、眞子さんの結婚を機にこれからより深まっていくことが懸念されるのです」悠仁さまが即位を辞退したら 秋篠宮家は眞子さんを皇室との縁が深い学習院ではなく、国際基督教大学(ICU)に、悠仁さまはお茶の水女子大学附属中学に進学させた。佳子さまも学習院からICUに転入されている。 皇族としての多忙な公務を務める一方で、秋篠宮家の子息は慣例にとらわれない自由な教育を受けてきた。 だが今回、眞子さんの“個人の意思”を秋篠宮家が尊重したことは、今後の皇室に重大な影響を及ぼす可能性がある。宮内庁担当記者が指摘する。「焦点となるのが、皇位継承順位2位の悠仁さまの将来です。眞子さんの結婚で一連のバッシング報道を目の当たりにした佳子さまが、“皇室を離れたい”という旨の発言をしたと報じられたこともあり、そのことが少なからず弟の悠仁さまにも影響を与えたはずです。 万が一、将来、悠仁さまが即位の辞退を求めたらどうなるのか。果たしてそのとき、秋篠宮さまはどうご対応されるのか。眞子さんの自由意思が認められたことで、こうしたケースが想定されうる事態になっているのです」 皇室離脱をめぐっては、過去には“ヒゲの殿下”こと寛仁親王(昭和天皇の甥)が「皇室離脱宣言」をする騒動があった。1982年のことだ。皇室ジャーナリストの神田秀一氏が振り返る。「あのときは昭和天皇が入江相政侍従長を通じて寛仁殿下を呼び出し、『いい加減なことを言うな』と強く叱責された。以後、殿下は何もおっしゃらなくなった。後に入江さんから『私もドキドキしましたよ』と聞きました」 当時、寛仁親王が皇室離脱宣言をしたのは、「制約の多い皇族から自由になりたい」と切望したからだと報じられた。「昭和天皇の言葉を受けて皇室に残ったものの、寛仁殿下の離脱宣言は、自分の意思で皇室を離れた眞子さんにも通じるところがある」(神田氏) 2019年5月に皇嗣となり、皇位継承順位1位になった秋篠宮さま自身、〈兄が80歳のとき、私は70代半ば。それからはできないです〉との発言が朝日新聞(2019年4月20日付)で報じられており、将来、天皇が退位しても秋篠宮さまは高齢を理由に即位を辞退する可能性が指摘されている。「悠仁さまの他に継承権を持つのは継承順位3位の常陸宮正仁親王(上皇の弟)だけですが、すでに85歳のご高齢です。万一、悠仁さまも特例を求めて即位を辞退すれば、その瞬間に天皇不在という事態が訪れる」(宮内庁担当記者) 悠仁さまがやがて天皇に即位したとしても、難題は山積みだ。「将来、悠仁さまに嫁ぐ女性は、“男児を生まなければならない”という強いプレッシャーの中で生きることになります。過去には美智子さま、雅子さまも結婚当初はいわれなきバッシングに晒されましたが、今回の眞子さんの結婚では、小室さん側の事情があったにせよ、家族も含めて配偶者のプライベートがすべて暴かれる怖さも露呈しました。そんな中で、悠仁さまと結婚しようという女性が果たして現われるのでしょうか」(同前)※週刊ポスト2021年11月12日号
2021.11.01 16:00
週刊ポスト
2020年の一般参賀の天皇皇后両陛下(写真/アフロ)
天皇ご一家が皇居の宮殿で仮暮らし 決断の背景に「美智子さまの苦しみ」
 国事行為や皇室行事が行われる皇居・宮殿。華やかな場所ではあるが、そこで「日常生活を送る」ことは想定されていない。ところが、この9月に天皇ご一家が宮殿で仮暮らしをされるという。なぜ両陛下は異例のご決断をされたのか。「御代がわりに伴う天皇ご一家の引っ越しは、本来ならば昨春までに終わるはずでした。新型コロナウイルスの影響で遅れていたのですが、ようやくめどが立ち、9月中には作業を完了する見込みです。気がかりなのは、引っ越しの最中、一時的とはいえ天皇ご一家が宮殿で暮らされること。前代未聞の事態です」(皇室ジャーナリスト) 天皇ご一家は現在、皇居から3kmほど離れた赤坂御所にお住まいだ。引っ越し先は、皇居・御所である。「天皇家のお引っ越しは、10日間ほどかけて行われます。身の回りのお荷物だけでなく、代々天皇家に伝わる貴重品や地方からの献上品、海外首脳や王族たちからの贈り物など、かなりの数の物品の運び出し・運び込みをしなければならないからです。そのため、引っ越し期間中は地方の御用邸で静養されるのが通例でした」(宮内庁関係者) 2020年3月、御代がわりのため、上皇ご夫妻が吹上仙洞御所(皇居)から仙洞仮御所(東京・港区高輪)へ引っ越される際は、ご夫妻は神奈川県の葉山御用邸と、栃木県の御料牧場で静養された。「今回、天皇ご一家も那須御用邸(栃木県)でお過ごしになる予定でした。しかし、緊急事態宣言が9月12日まで延長され、都道府県間の移動は極力控えねばならなくなった。隣県にある葉山御用邸なら大丈夫ではないかという声もありましたが、陛下が都外への移動を固辞されたのです。国民が移動の自粛を強いられるなか、例外的な行動をするべきではないという強いご意志があったのでしょう」(前出・宮内庁関係者) 赤坂御用地のすぐ隣には「迎賓館赤坂離宮」があるが、宮内庁の管轄外であり、警備やお食事の手配が難しい。「調整が難航していたところ、陛下から“宮殿はどうだろうか”というご提案があったそうです。実は、側近たちも皇居内の宮殿ならば警備面でも安心だと考えていたものの、日常生活を送る場所として想定されていないので、ご相談申し上げられずにいた。陛下からの打診は大変ありがたいことだと側近たちも胸をなで下ろしたそうです。 進んで窮屈な生活を受け入れられたことは、国民に寄り添う姿勢を貫かれる陛下と雅子さまらしいことだと思います」(前出・宮内庁関係者)昭和天皇が“宿泊リハーサル” 2年前の御代がわりの儀式「即位礼正殿の儀」において、陛下が高御座に上られ、即位を宣明されたシーンは記憶に新しい。それが行われたのが、宮殿の正殿・松の間だった。宮殿には、文化勲章親授式や歌会始の儀など皇室の主要な儀式で使用される「正殿」のほかに、一般参賀で皇族方が並ばれる長いベランダのある「長和殿」などがある。「天皇ご一家のプライベートなエリアとされるのが表御座所です。陛下の執務室である『菊の間』、内奏や報告を受けられる拝謁室『鳳凰の間』、談話室の『芳菊の間』のほかに、皇后専用の『桐の間』や侍従の部屋が並んでいます。ご一家はおそらくここで暮らされることになるが、住居として想定されていないので、寝具などを持ち込む必要があります」(皇室関係者)『昭和天皇実録』によれば、昭和天皇は訪欧前の“宿泊リハーサル”として、表御座所に宿泊したことがある。食事は芳菊の間、着替えは萩の間、寝室として花の間を使用したと記されている。「宮殿の地下には、天皇ご一家の食事を担当する『大膳課』の事務室や厨房もあり、食事にも困らないでしょう。とはいえ、昭和天皇でさえ“リハーサル”で泊まられただけの場所です。緊急事態宣言の解除を待って引っ越された方が、ご不便をかけることもなく、よかったのではないかと思うのですが……」(別の宮内庁関係者) 宣言明けまで待つといっても2か月ほどのはず。なぜ両陛下はお引っ越しを迅速に行うことにこだわられたのだろうか。お忍びで宮内庁病院へ 前述の通り、美智子さまは2020年3月から、上皇陛下と仙洞仮御所にお住まいだ。長引くコロナ禍で、美智子さまは「おこもり生活」を徹底されている。「娘の黒田清子さんともお会いになっておらず、側近たちと顔を合わす機会も制限されているそうです。最近は、ご近所のマンションに住む学生時代のご友人と手を振り合われるのが楽しみだそうです。約束の時間を決め、ご友人はベランダで、美智子さまはお庭で、待ち合わせをされているようですよ」(前出・別の宮内庁関係者) そんな美智子さまに、新たなご心配事が浮上したという。前出の宮内庁関係者の話。「近頃、美智子さまのご体調が優れないようなのです。今年6月の定期検診で、心不全の診断指標となるホルモン値が正常値を上回っていることが発覚しました。原因は不明だということです。美智子さまはゆっくり歩かれていても、時折立ち止まり、はあはあと息を切らされることがあるそうです。かなりおつらいのではないか」 この8月中旬、炎天下のなかで美智子さまは上皇陛下とご一緒に、お忍びで皇居へ向かわれたという。「午前中に皇居に入られ、上皇陛下は生物学研究所に向かわれました。一方、美智子さまは宮内庁病院に入られた。定期検診とのことでしたが、夕方までじっくりと検査をされたようです」(皇室記者)「美智子さまにとって、仙洞仮御所での生活は多大なストレスとなっているようだ」とは、前出の皇室関係者。「仙洞仮御所は、とにかく敷地が狭い。美智子さまは上皇さまとの散歩を日課とされていますが、敷地内では同じところを回るしかありません。また1年半ほど前、羽田空港が新たな飛行ルートを採用し、仙洞仮御所の上空を飛行機が通るようになりました。声を張らないと会話ができないほどの騒音だそうです」 さらに、「指のしびれも続いており、趣味のピアノを満足に弾ける状態ではない」(前出・皇室関係者)という。そんな美智子さまを案じられているのが、雅子さまだ。「天皇ご一家の引っ越しが終わり、赤坂御所の改修が終われば、上皇ご夫妻はそこにお引っ越しができます。赤坂御用地は敷地も広く、散歩されるには充分なばかりか、孫の悠仁さまもいらっしゃるなど、ご気分が晴れるはずです。美智子さまにとって、皇太子妃時代に30年間暮らされた、思い出の邸宅でもあります。 雅子さまは、不自由な生活を続けられている美智子さまに、“できるだけ早く赤坂御用地に戻られてほしい”とお考えなのでしょう。 たしかに雅子さまは、8月15日にあった全国戦没者追悼式でふらつかれるなど、ご体調は万全とはいえませんが、“美智子さまのために、9月中には引っ越しを完了させたい”と異例の宮殿暮らしを決断されたのではないでしょうか」(前出・別の宮内庁関係者) 秋には新生活が始まる。※女性セブン2021年9月16日号
2021.09.02 16:00
女性セブン
バブルの売り手市場でご結婚を選んだ紀子さま 同世代女性が感じた意外性
バブルの売り手市場でご結婚を選んだ紀子さま 同世代女性が感じた意外性
 コロナ禍による重苦しい空気が漂う今では想像もできないほど、世の中が浮かれていた1980年代後半のバブル経済期。夜の街は大勢の男女で賑わい、一万円札をヒラヒラさせてタクシーを止める時代。車で女性を送り迎えする「アッシーくん」、食事をおごる「メッシーくん」が登場し、女性は高学歴・高収入・高身長の「3高」の男性を追い求めた。世代的にバブルを享受した財前直見(55才)はこう語っている。「当時はブランド品をプレゼントしてくれて、高級車でドライブに、果ては海外旅行に連れて行ってくれるお金持ちがよくモテました。とにかくみんなステータスを見ていたかな(笑い)」(財前) やがてバブル景気はピークを越えて、時代は徐々に下り坂に入っていく。1989年1月には、闘病生活を続けられていた昭和天皇が崩御され、日本中が沈痛な雰囲気に覆われた。「昭和天皇の崩御は、私の人生のなかでも印象に残っている大きな出来事です」と振り返るのは漫画家の西炯子さん(54才)だ。「私の祖父宅は、居間に天皇ご一家の写真が飾ってあって、祝日に日章旗を立てていました。田舎はそういう家が多かったと思います。 毎年お正月に新しい写真に取り換えるので、天皇ご一家も毎年、年を取られていくんです。例えば、紀宮さま(黒田清子さん)は中学校にご入学されるくらい大きくなられたんだなあ、とか。そのせいか、天皇ご一家にはとても親近感がありました。 昭和天皇は、『日本』という大きな共同体の父親という印象でしたね。だから、崩じられたときには悲しかったですし、ひとつの時代が終わってしまったという喪失感がありました」(西さん) 時代が昭和から平成にうつって8か月が経過した1989年9月、日本全土を揺るがす大きなニュースがあった。秋篠宮さまと紀子さまの婚約内定である。 紀子さまは、「丙午」(ひのえうま)である1966年生まれだ。当時はまだ丙午の迷信も根強く、1966年の出生数は少なかった。1966年の日本全国の出生数はで約136万人で、1965年の約182万人、1967年の約194万人と比べて、かなり少ないことがわかる。 男女雇用機会均等法の施行後、紀子さまは大学を卒業される。バブル経済と丙午の影響による出生数の少なさもあいまって“売り手市場”であったが、学習院大学大学院に進学して、そのまま25才の若さでご結婚された紀子さま。その選択は、同じ年に生まれた丙午の女性には、実は意外なものだったといえる。翻訳家として活躍する池田真紀子さん(54才)はこう言う。「私は証券会社に総合職で入社したのですが、性に合わず1年で辞めて、コンサル会社に再就職して27才で結婚しました。私の友人は4大卒の女性が多いのですが、いちばん早い結婚でした。周りを見ても、当時大卒女性の結婚はもう少し後になることが多かったと思います」(池田さん) 1966年生まれの西さんはこう語る。「山梨まで紀子さまの噂は届いていました。紀子さまのお父さまが念入りに嫁入り教育をされていたという報道を見て、『準備万端だったんだな』と思った記憶があります。同世代の女性が『結婚したら負けだ』と意識するなか、就職せずにご結婚された紀子さまは、同い年としては特殊だったかもしれません」 1966年生まれで、2003年にベストセラーとなった『負け犬の遠吠え』(講談社)の著者である酒井順子さんは、紀子さまのご結婚を知ったときの驚きをこう記している。《私には、大学院に進学したとはいえ、就職せずに結婚した紀子さまが特異に見えました。語学も堪能な帰国子女だというのに皇室に入るとはもったいない、とも》(『月刊文藝春秋』2021年7月号) 家族問題評論家の宮本まき子さんが解説する。「平等主義の裏に厳然と残る階層社会で“セレブ妻”に憧れ、目標とした女性は一定数はいたでしょう。結婚は社会における自分の階級を上げられる最速のチャンス。照準を合わせた男性に求婚させることは、恋愛というよりは、“狩り”だったはずです」※女性セブン2021年7月22日号
2021.07.13 11:00
女性セブン
高まる五輪開催反対論 雅子さまは「開会式に出席しない」のご決断も
高まる五輪開催反対論 雅子さまは「開会式に出席しない」のご決断も
 五輪開幕まで約1か月半となったいま、国民の間では「開催反対論」が高まりを見せている。もしも“無観客開催”となったならば、「国民とともにあること」を何より重要視される雅子さまは、どんなご決断をされるのか。「2020年に行われる東京五輪は、令和の天皇皇后両陛下を世界にお披露目するいい機会だと、御代がわりの前から上皇后美智子さまはお考えでした。その思いは、体調不安を抱えられている雅子さまにも伝わっています。1年延期にはなりましたが、雅子さまは“五輪のホスト国の皇后”としての責務を果たすため、特に最近は体調の管理を徹底されていらっしゃるそうです」(宮内庁関係者) 5月25日夕刻、雅子さまはご養蚕の作業のため、皇居に入られた。半蔵門の通過の際は車窓を全開にされ、居合わせた人々に笑顔で手を振られる余裕も見せられた。美智子さまがライフワークとされてきたご養蚕を継ぎ、雅子さまは新型コロナ禍でも伝統を守られている。「作業に当たる担当者は、“密”にならないよう減らされました。また、飼育する蚕の品種は、4種から1種に絞られるなど、イレギュラーな対応がなされているそうです。それでも、皇后の伝統を継ぐためであると同時に、コロナで御所に引きこもっていては体調管理もままならないので、東京五輪も見据え、あえて作業に出かけられているのでしょう」(皇室記者) 徹底して五輪への準備を進められている雅子さま。しかし、その雅子さまの五輪での“ご活躍”に暗雲が立ちこめている──。愛子さまはバスケットボールを楽しみに 天皇陛下は今回、東京五輪とパラリンピック各大会の名誉総裁を務められている。「1964年の東京五輪では昭和天皇が名誉総裁を務められ、開会宣言をされました。また、当時皇太子だった上皇陛下はパラリンピックの名誉総裁を務められた。今回は、オリンピックとパラリンピックを“平等なスポーツの祭典にしたい”という組織委員会の意向で、陛下が両大会の名誉総裁を兼任されています。予定通りならば、両大会の開会式に両陛下が出席され、天皇陛下は両大会で開会宣言をされる見込みです」(前出・皇室記者) 両陛下の五輪の責務は「開会宣言」だけではない。IOC幹部のほか、参加国の国家元首や首脳、王族など世界各国の要人が「ホスト国・日本」に一堂に会する五輪は、外交の大舞台という側面を持つからだ。「世界のVIPの応接には、外交儀礼上、天皇皇后両陛下のほか皇族方の“出番”が求められる機会は多い。バッハIOC会長が陛下との接見を求めていると、一部では批判的に報じられましたが、五輪の名誉総裁としては当然のこと。もともと皇室と交流のある海外の王族たちも、皇族方への表敬訪問の機会を求めるでしょう。政治的に重要な国々の首脳には、日本政府の要請で両陛下がお会いになる場面も少なからずあるはずです」(官邸関係者) 特に期待されていたのは、国際経験が豊かな雅子さまのご活躍だ。「2019年5月、令和初の国賓としてドナルド・トランプ前米大統領夫妻が来日した際、雅子さまはメラニア夫人の出身国の文化に合わせてチークキスをされるなど、高いレベルの外交技術を発揮されました。アメリカでは “雅子妃はスターだった”と大きく報じられ、日本の外務省幹部は“雅子さまは外交の切り札になる”と唸ったそうです。 雅子さまが、来賓と政府の双方から応接の要望を受ける機会は多く、開催期間中は大変お忙しくなる。だからこそ、体調の管理に努められているのです」(前出・皇室記者) もちろん世界最高の競技のパフォーマンスも楽しみにされていたはずだ。「雅子さまはスポーツ万能で、中学時代はソフトボール部の4番バッターでした。ご自分が詳しい競技だけでなく、各競技のルールを熱心に勉強されているといいます。 陛下も4才だった前回の東京五輪でマラソンを観戦されていたり、長女の愛子さまは御所にゴールを設けて練習するほどのバスケットボール好き。お三方とも五輪・パラリンピックを心待ちにされ、ご一家で談笑されることもあったそうです」(前出・宮内庁関係者)開会宣言はリモートで 開幕まで約1か月半。しかし、国民の間にはコロナ禍の状況に鑑みて、開催反対論が高まっている。朝日新聞の世論調査では「中止」が43%で「再延期」40%、読売新聞では「中止」が59%に上った。そんななかで、名誉総裁である陛下は沈黙されている。「陛下は、2019年の誕生日会見で、パラリンピックのランナーの伴走をした経験を踏まえて『東京五輪を楽しみにしている』と述べられましたが、今年2月の誕生日会見では触れられませんでした。それ以来、沈黙を貫かれています。東京五輪の開催が国民の気持ちに反する状況であることを理解していらっしゃるのでは」(皇室ジャーナリスト) 五輪の開催について前出の官邸関係者は次のように語る。「菅義偉総理は観客を入れての開催に強くこだわっています。しかし、いまのような民意の状況では現実的に難しい。周囲が菅総理を説得し、6月下旬までには“無観客での開催”を発表するでしょう」 無観客の場合、競技場に入るのは、アスリートとそのスタッフ、報道関係者に限られる。広い観客席には、海外からの観戦客はもちろん、チケット当選した国民の姿もない。 1964年の東京五輪では、国立競技場で開会宣言をする昭和天皇の隣に、香淳皇后のお姿があった。1998年の長野五輪でも、開会宣言をされた上皇陛下に美智子さまが寄り添われていた。パラリンピックでは、美智子さまがスタンドで起きたウエーブに参加され、会場を盛り上げられたことが大きな話題になった。本来なら、雅子さまも陛下に寄り添われて共に大会を盛り上げ、そのお姿は国民の記憶に刻まれたに違いない。しかし、無観客開催となっては、事情が大きく異なる。宮内庁は対応について「正式には決まっていない」と説明するが、もう五輪は目前まで迫っており、水面下ではシミュレーションが行われているという。「たとえば、日本代表選手団の結団式が7月上旬に予定されています。本来は皇嗣になられた秋篠宮さまが選手団に直接、お言葉をかけられるはずですが、このような状況なので、事前に録画したメッセージを、オンラインを通じて伝えることが検討されています。そのように、無観客の場合、皇族方はリモートを駆使されるのが、現実的な対応になるでしょう。 名誉総裁というお立場ゆえ、陛下の五輪・パラリンピックの開会式の“ご欠席”は考えられません。無観客ならば陛下はリモートで開会宣言をされることになるのではないか。そのとき、お隣に雅子さまのお姿はあるでしょうか。もし陛下が開会式で国立競技場に入らざるを得ないとしても、雅子さまは伴われない可能性があります」(前出・官邸関係者) これまでの日本開催の五輪では、皇族方が会場に足を運ばれ、観戦されてきた。「コロナ禍でなければ、陛下も雅子さまや愛子さまとご家族で観戦されたでしょう。しかし、国民がひとりも生観戦できないのに、ご一家が競技会場に足を運ばれ、楽しまれることは考えにくい。 両陛下は “国民不在”の大会に参加すべきなのか、相当悩まれていらっしゃるはずです。雅子さまは、東京五輪には実質的に不参加ということになるのではないでしょうか」(前出・皇室ジャーナリスト) 厳しいご決断だが、雅子さまはいつも国民の方を向かれているのだ。※女性セブン2021年6月17日号
2021.06.04 16:00
女性セブン
皇后雅子さま、若草色のセットアップ姿 全国植樹会での麗しきたたずまい
皇后雅子さま、若草色のセットアップ姿 全国植樹会での麗しきたたずまい
 皇后雅子さまが、初の「リモート出席」という形で全国植樹祭に出席された。赤坂御用地(東京・港区)を颯爽と歩かれる雅子さまは、植樹祭に合わせた若草色のセットアップ姿。その麗しきたたずまいは、皇后として3年目を迎えられた自信を感じさせるものだった。 天皇皇后両陛下は5月30日、島根県で行われた「第71回全国植樹祭」にオンラインで参加された。コロナ禍のため、初の「リモート出席」となった今回の植樹祭でも、雅子さまは変わらない輝きを放っていた。撮影/雑誌協会代表取材※女性セブン2021年6月17日号
2021.06.03 19:00
女性セブン
天皇陛下のお手まき
昭和時代から受け継がれる「皇室の稲作」収穫されたお米はどうする?
「みずみずしい稲穂の実る国」として、日本は古来より「瑞穂の国」と呼ばれてきた。そのルーツは1300年前にも遡り、神様からのいただきものである米は神聖なものとされ、皇室にとって「稲作」で日本を豊かにすることは、古くから伝わる使命の1つだという。その尊い「約束」を、現代まで紡がれてきた皇族方のお姿を振り返る。 昭和天皇から上皇陛下、天皇陛下へと約100年にわたって受け継がれてきた「皇室の稲作」が今年も始まった。昭和2年に昭和天皇が始められた稲作について上皇陛下は、「それを行う意義を重視していくことが望ましい」(2009年)とされ、種もみをまくことなど形にとらわれずにそのご遺志を引き継がれている。 天皇陛下もまた、その意義を果たされようと、4月6日、皇居にある苗代に種もみをまく「お手まき」を行われた。皇居での稲作は、その年の豊作を願って行われるもの。収穫された米は例年秋に行われる宮中祭祀「新嘗祭」などに使われる。 まかれたのは、うるち米の『ニホンマサリ』ともち米の『マンゲツモチ』の2種類の種もみ。100年以上の歴史を持つ米穀専門店・隅田屋商店で“五つ星お米マイスター”として活躍する片山真一さんが話す。「『ニホンマサリ』は関東地方でよく収穫されるもの。『日本晴』や『亀の尾』といった良食味米の原種です。『マンゲツモチ』は、茨城県、千葉県を中心に生育されています。しっかりとした食感が特徴で、餅にした場合は弾力が強くコシが生まれます」収穫された米は宮中祭祀に「天皇陛下が植えられるお米は、神棚に供える食べ物『神饌』として、さまざまな宮中祭祀に使われると聞きます。販売目的ではないため、種は宮中で代々、自家増殖として受け継がれてきた可能性もあります。『ニホンマサリ』も『マンゲツモチ』も、古くからある品種です。昭和天皇が稲作を始められたときに選ばれた品種が、代々受け継がれているのではないでしょうか」(片山さん) 今回植えられた種もみは、およそ40日で苗に育ち、陛下が5月に自ら田植えをされ、秋に収穫される予定だ。先代が紡いできた伝統を、今年も大切に育てていかれることだろう。※女性セブン2021年4月29日号
2021.04.17 16:00
女性セブン
左から2人目が渡辺錠太郎、1人置いて妻のすずと膝に抱かれた娘の和子(渡辺家蔵)
「二・二六事件」秘史──被害者遺族を救った天皇の言葉
 今年もまた、2月26日がやってきた──。今から85年前の1936(昭和11)年2月26日、大雪に見舞われた帝都・東京で“事件”は起きた。1500人近い陸軍将兵らがクーデターを図った「二・二六事件」である。 今年1月に90歳で亡くなった“昭和史の語り部”作家の半藤一利氏も、この事件についてさまざまな視点から言及していた。中でも印象的なのは「宮城(皇居)占拠計画」に関する指摘だろう。〈彼らが狙ったのは、天皇陛下というものをわが手で押さえてしまおう、そうすれば、明治維新の時に「玉(ぎょく)を押さえる」ということで、薩摩と長州と土佐が明治天皇を頭に戴(いただ)いて偽の命令を出し、あっという間に官軍になってしまった歴史的事実がありますので、この場合も昭和天皇を背後に戴くことによって自分たちが官軍になる、これに敵してくる者たちは賊軍になるという方式を考えたのです。〉(『昭和史 1926-1945』「二・二六事件の眼目は『宮城占拠計画』にあった」)「尊王義軍」という論理 主謀した「蹶起(けっき)部隊」の青年将校たちは、時の首相や蔵相ら政府要人を暗殺するばかりか、皇居までも占拠する——まさに“日本改造”を企図していた。その背景に「官軍」「賊軍」の考え方があったとするのは半藤氏ならではの解説だが、さらにそこから権力の中心にある天皇が「維新」のために担ぎ出される経緯が解き明かされる。〈こうなると「明治維新」です。彼らは事件を「昭和維新」と銘打ち、自分たちは天皇陛下を尊び、義のために立った「尊王義軍」と称しました。確かに彼らの気持ちの中には「天皇陛下のために立ち上がる、そして陛下はそれをわかってくださる」という確信があったのでしょう。[中略]そこで彼らは何を考えたのか、先に申しましたが、宮城をまるまる占拠しようとしたのです。〉(同前) しかし、当の昭和天皇は兵士らの蹶起に激怒し、即座に事件を終息させるように命じた。当時側近だった陸軍の本庄繁・侍従武官長が日記に残した天皇の言葉はよく知られている。「朕(ちん)が股肱(ここう=腹心)の老臣を殺戮(さつりく)す。この如き凶暴の将校ら、その精神においても何の恕(ゆる)すべきものありや」 結局、蹶起3日目の2月28日、天皇から各部隊に撤退を命じる「奉勅(ほうちょく)命令」が下達。参加した下士官や兵士たちは「叛乱部隊」とされ、青年将校たちは収監・処刑された。「陛下の御恩を忘れてはいけない」 この昭和天皇の言葉に救われたのが、事件の被害者遺族だった。 犠牲者の一人である陸軍教育総監・渡辺錠太郎大将の末娘で、のちに200万部超の大ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』を著わしたシスター・渡辺和子さん(2016年逝去)は、こう回想している。〈事件後も母は涙を流すことはありませんでした。ただ事件を知った昭和天皇が「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此レガ鎮定ニ当タラン」、つまり自ら近衛兵を率いて鎮静にあたるとまで言ってくださったことに母は大変感謝して、「陛下のお蔭でお父様の面目が立った。天皇陛下の御恩を忘れてはいけない」とつねづね言っておりました。〉(渡辺和子「憲兵は父を守らなかった」) 渡辺大将の没後85年目に初めてまとめられた話題の本格評伝『渡辺錠太郎伝』には、青年将校らと同じ陸軍軍人でありながら、「戦争だけはしてはいけない」という非戦思想を唱えていた渡辺大将の人と形(なり)が綴られている。 その渡辺大将が、二・二六事件で襲撃対象になったのは事件直前と見られるが、詳しい経緯は明らかになっていない。だが、同書の著者である歴史研究者の岩井秀一郎氏によれば、前任の教育総監だった真崎甚三郎大将らとの陸軍内の権力抗争に加え、天皇を国家の中の一つの「機関」とする「天皇機関説」をめぐる政治的な争いが影響していたという。「大きな契機になったのが、事件の半年前に渡辺大将が陸軍の将校相手に訓示をした際に『天皇機関説』を支持した、と喧伝されたことでした。それによって、渡辺大将に対する批判が殺到します。しかし、もともと天皇自身が『機関説』を認めており、渡辺大将にしてみれば、その陛下の考えを否定するのもいかがなものかという思いがあったのではないかと思います。 また、そもそも訓示は、そうした問題について陸軍の軍人たちが個々に議論することを戒めるものでした。にもかかわらず、その真意が広く伝わることはなく、一方的に『君側(くんそく)の奸』というレッテルを貼られたのです」(岩井氏) 同じ陸軍の中にあって、青年将校にしても渡辺大将にしても「天皇陛下のために」という思いは共通していた。しかし、昭和天皇が救おうとしたのは、渡辺大将のほうだった。そして結果的に、渡辺大将が命を落としたことで、日本はさらに坂道を転げ落ちるように戦争へと突き進んでいく。85年目の評伝は、その歴史の真実を教えてくれる。 昭和史は、まだまだ語り継ぐべき教えに満ちている。*参考文献/半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)、渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」(「文藝春秋」2012年9月号)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)
2021.02.26 07:00
NEWSポストセブン
最も鉄道を利用した皇族のひとり昭和天皇 移動距離は24万km超
最も鉄道を利用した皇族のひとり昭和天皇 移動距離は24万km超
 コロナ禍で旅行に出かけられないいま、「オンラインの鉄道旅行」が密かな人気だ。各地のローカル路線を巡るテレビの旅番組にも、地方への移動自粛が叫ばれるこんな時期だからこそ、特に旅情をかきたてられる。現代人にとって鉄道は、たんに移動や輸送の手段ではなく、自分を非日常の場所に運んでくれるもの。また、路線の成り立ちを探究することで、土地の歴史や文化を知ることができるという魅力もある。「日本の路線や鉄道の発展を語るとき、その背景に『皇室』が関係していることが多い。たとえば、皇族方の遠方のご公務における移動手段として整備された路線もあります。皇室と鉄道の歴史は密接に関連しているのです」 そう語るのは歴史探訪家で、新著『妙な線路 大研究』(実業之日本社刊)が反響を呼んでいる竹内正浩さんだ。日本で初めて鉄道が開通したのは1872(明治5)年。新橋~横浜間が最初の区間だった。その開業式に先駆けて、明治天皇が仮営業中だった横浜から品川まで乗車したのが、現代に至る皇室と鉄道の歴史の始まりである。「特に昭和天皇は、史上最も鉄道を利用した皇族のひとりといっても差し支えないでしょう。87年の生涯で、列車での移動距離はゆうに24万kmを超えたといわれます。大正時代以降、日本の鉄道網が徐々に整備されたことで、皇族方の遠方でのご公務の機会も飛躍的に増えました」(竹内さん・以下同) 昭和天皇の“電車好き”は年始の恒例行事である「歌会始」の様子からもうかがい知ることができる。《国鉄の車に乗りておほちちの明治のみ世をおもひみにけり》「これは昭和63年の歌会始で昭和天皇がお詠みになられた短歌です。お題は『車』だったため、多くの皇族方が自動車を詠んだなかで、その歌は印象的だったといいます」 体調を崩されていた昭和天皇にとって、その年が最後の歌会始となった。最後に詠まれたのが「鉄道」だったことは、列車で日本の津々浦々を巡られた昭和天皇らしいエピソードだろう。※女性セブン2021年2月4日号
2021.01.23 16:00
女性セブン
作家の嵐山光三郎氏が『感染症の日本史』(著・磯田道史)を解説
【嵐山光三郎氏書評】読者を覚醒させる「歴史のワクチン」
【書評】『感染症の日本史』/磯田道史・著/文春新書/800円+税【評者】嵐山光三郎(作家) 感染症、とりわけその世界的流行であるパンデミックの対策には医学やウイルス学だけでなく、経済学、社会学、心理学や歴史学を含んだ検証が必要となる。磯田氏は有史以前からスペイン風邪のパンデミックに至るまで、さまざまな感染症の史実を検証した。 百年前におきたスペイン風邪は全世界で五千万人以上の人が命を落とした。スペイン風邪は日本に三回やってきた。第一波は大正七(一九一八)年五月から、第二波は同年十月から翌年五月までで二十六・六万人の死亡者、第三波(後流行)は大正八年十一月から翌年五月までの六ケ月で死者は一八・三万人。 大正時代を代表する平民宰相原敬は大正七年秋にスペイン風邪第二波のパンデミックに巻きこまれた。北里研究所主催のパーティーに出席した翌日、病に倒れた。原が率る政友会政権をバックアップしていた元老の山県有朋(八十歳)もスペイン風邪で重態となった。つぎつぎと閣僚や政府関係者が罹患していった。 大正天皇が体調不良で葉山の御用邸へ移り、昭和天皇(当時は皇太子)も感染し、秩父宮もかかった。厳重に警戒してもインフルエンザウイルスは相手を選ばない。 磯田氏は『原敬日記』『大正天皇実録』『昭和天皇実録』、四竈孝輔『侍従武官日記』といった日記、実録をもとに検証していく。昭和天皇と原敬はともに第二波の罹患で、秩父宮は第三波のより強毒化されたウイルスに襲われ、『雍仁親王実紀』には近衛師団の罹病者千百三十七名、死亡者二十九名と記録された。 磯田史学は伊勢祭祀の原点に病疫があり、天然痘の大流行が奈良の大仏を作った話、滝沢馬琴が随筆に書き残したパンデミック、など、え?と驚く話がヅラヅラと出てくる。志賀直哉のインフルエンザ小説、歌人で医師であった斎藤茂吉がスペイン風邪にかかって、息子へ短歌を送った。この一冊は「歴史のワクチン」として読者を覚醒させる。※週刊ポスト2021年1月1・8日号
2020.12.26 19:00
週刊ポスト
特捜部が動く鶏卵汚職事件 疑惑の源流に「天皇陛下の伯父」
特捜部が動く鶏卵汚職事件 疑惑の源流に「天皇陛下の伯父」
「ニワトリはどうか」。時は昭和63年10月、病床の昭和天皇はお見舞いに来た娘夫婦にそう声をかけられたという。その頃、昭和天皇は吐血を繰り返されていたが、四女の厚子さんと、その夫で旧岡山藩主池田家の16代目・池田隆政さんの顔を見ると、穏やかな表情になられたという。その面談の際、牧畜業を営む池田さんに事業の近況を尋ねられたのが冒頭の言葉だった。 それから30年──長年、池田さんが仕切ってきた日本の「ニワトリ事業」が、思わぬ注目を浴びている。この冬、東京地検特捜部が鶏卵業界と政界の癒着疑惑に着手したのだ。「鶏卵業者の業界団体の元幹部から、農水相に違法な献金がされていたという事件です。そのヤミ献金の見返りは、鶏卵の『価格差補填事業』の拡充だったとみられています」(全国紙社会部記者) 卵は「物価の優等生」とよくいわれる。30年以上前から、スーパーで買う卵1パックは200円前後で安定。物価が上昇しても、ニワトリのエサ代が上がっても、卵が供給過多になっても価格が変わらないのは、農水省からの補助金などで「価格差補填事業」が行われているからだ。 鶏卵業者はできるだけ農水省からの補助金は多い方がいいので、大臣にカネを渡したのではないかとされている。「この補填事業は、2012年まで全国鶏卵販売農業協同組合連合会(全鶏連)という団体が中心になって行われてきました。1969年の全鶏連の発足から40年以上、代表を務めていたのが池田さんだった。“鶏卵業界の重鎮”といえる存在で、『価格差補填事業』を差配してきたのも池田さんでした」(前出・全国紙社会部記者) 池田さんは冒頭の通り、昭和天皇の四女の夫であり、上皇陛下の義兄、天皇陛下の伯父に当たる人物だ。「隆政さんは地元・岡山で動物園も運営していて、昭和天皇や上皇陛下が来園されたこともあります。隆政さんがその動物園の隣で経営していたのが、大きな養鶏場でした。 天皇家は古来、国民のために“五穀豊穣の祈り”を捧げてきた。それゆえに、ずっと昔から農業や漁業、牧畜業や林業など第一次産業やその業界団体とのつながりが深い。そういう縁で、隆政さんが鶏卵の業界団体のトップに就いたとされています」(皇室関係者) 池田さんが2012年7月に亡くなると、同年、全鶏連の事業に“不透明な経理”が見つかり、「価格差補填事業」は別の業界団体に引き継がれた。ただ、今回の事件の源流には、池田さんがかかわってきた卵の価格の「複雑な背景」がありそうだ。実際、「特捜部は当時の鶏卵業界関係者や農水省OBを片っ端から事情聴取している」(前出・全国紙社会部記者)という。特捜部はどこまで斬り込めるだろうか。※女性セブン2021年1月7・14日号
2020.12.22 16:00
女性セブン
「反乱軍」に占拠された山王ホテル(時事通信フォト)
「二・二六事件」85年目の真実 青年将校「父母への手紙」
 昭和11(1936)年2月26日に帝都東京で起きた「二・二六事件」――。「反乱軍」を率いた青年将校らはその後死刑判決を受け、同年7月12日、陸軍刑務所内で処刑された。命日にあたる今年7月12日、青年将校らが眠る麻布・賢崇寺では、事件で殺害された犠牲者の冥福を祈り、処刑された青年将校らを悼む85回忌法要が営まれた。 二・二六事件当時、1500人近い陸軍将兵からなる「反乱軍」は、4日間にわたって赤坂・三宅坂一帯を占拠した。しかし、速やかな原隊復帰を命じる昭和天皇の「奉勅命令」が出され、各部隊ともに帰順するに至る。 閏日(うるうび)の2月29日土曜日(奇しくも閏年の今年と同じ曜日のめぐり合わせ)、部隊を率いていた青年将校らは、建設中の国会議事堂の前にあった陸相官邸に集められた。そして、自決した野中四郎、河野寿両大尉らを除く全員が渋谷(宇田川町)にあった陸軍刑務所に護送・収容された。その後、将校らに対する処罰は、短期間に国民の目の届かないところで決められた。 翌3月1日には緊急勅令が出され、3月4日に東京陸軍軍法会議が特設される。しかし、当初から弁護人は付けられず、将校らの発言も制限され、一審制で上告も許されなかった。のちに「暗黒裁判」とも評された審理は非公開で、わずか1か月半で結審となり、事件から約4か月後の7月5日には死刑判決が言い渡された。新聞報道は翌々日で、それから5日後の7月12日日曜日、陸軍刑務所内で刑が執行されたのだった。 これに先立つ同種のテロ事件――昭和7(1932)年の「血盟団事件」や「五・一五事件」、昭和10年の「相沢事件」では、裁判も公開され、新聞報道もなされていた。たとえば、犬養毅総理大臣を暗殺した五・一五事件の裁判では、首謀した海軍将校らに対して最高で「禁固15年」の判決が言い渡されたが、それは事件から約1年半後のことだった。また、法廷での彼らの陳述はたびたび新聞で報じられたため、多くの国民が、青年将校らには私心がなく、悪政の元凶である政党や財閥、特権階級を打破し困窮する農民や労働者を救おうと意図していたと知ることになり、減刑を嘆願する動きすらあったという。 そのような“義憤”は、二・二六事件を引き起こした陸軍将校らにも通じるものだった。しかし、1500人近くの兵を動かして帝都の中心部を占拠し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監など20人近い死傷者を出した未曾有のクーデター未遂を起こした将校らに対する昭和天皇の怒りと危機感も、過去に例のないものだった。それが、異例の厳しい処罰へとつながっていく。 判決が言い渡される7月5日を前に、将校の家族のもとに急遽、面会を許可する連絡が入った。犠牲になった渡辺教育総監の評伝『渡辺錠太郎伝』(岩井秀一郎著)によれば、渡辺邸襲撃を指揮した青年将校の一人、安田優(ゆたか)少尉(当時24歳/熊本県天草出身)も、最後に家族との面会が許されたという。 同書には、安田少尉の弟・善三郎氏の次のような証言が収録されている。「父は、その年の5月ごろから東京に出て待機していたんですが、ある日、天草の実家に『7月5日に面会さし許す』という電報が届きました。後からわかりましたが、その日に判決が言い渡されることになっていたんです。そこで、今度は天草から東京の父宛にそれを電報で伝えなくてはいけない。村では電報を取り扱う郵便局がなかったので、急いで隣村まで電報を打ちに行きました。そうしたら、その1週間後の7月12日に今度は東京の父から『優、従容(しょうよう)として死す』という電報が天草に届いた。母ももちろん覚悟はしていたようですが、それを目にしてまた泣き崩れました」父母に仕送りを続けた青年将校 同書には、安田少尉が事件に至るまでに実家に書き送った手紙が多数紹介されている。それを読むと、「クーデター」を企図し、「反乱軍」の一部を指揮した軍人とは思えない、一人の純粋な青年将校の素顔が見えてくる。 たとえば、二・二六事件の4か月前にあたる昭和10年10月には、両親あての手紙の中で、陸軍将校向けの生命保険(3000円=現在の価値にしておよそ600万円相当と推測)に加入したことを報告している。しばらくは結婚するつもりもないため、その保険の受取人を当時まだ幼かった妹(三女・久恵)にしたと明かし、続く11月の書簡では、翌月から実家あてに毎月10円ずつ仕送りすると書かれている。〈拝呈仕り候[中略]/尚 今般参千円の生命保険に加入 受取人は妹久恵に致し置き候間御含み下され度候/是十四五年の間は 結婚する考も無之候えば久恵にて宜しかる可く候/二三年間に戦争等勃発仕り候折は勿論の事にて三十年にて満期とか 最も確実なる偕行社の将校保険に候[中略]/父母上様/(昭和十年十月二十日)〉〈拝呈 砲工学校入校のために出京 姉の家に落ち付きました/旅費の関係で帰省しませぬ 年末には一寸暇がありますが帰省を見合せて金でも送りましょう/十二月からは一月に十円必ず送りますから今迄は悪しからず[中略]/父母上様/(昭和十年十一月十日)〉 さらに、事件の一か月半前には、実家を離れた妹(次女・土の)の代わりに女中を雇うようにと父親に提案し、その費用は自分が負担すると明言している。〈謹呈 益々御清栄の事と存じます 土のが本渡町に行った間 手が足らなくて御困りでしょう/年に五六十円出したら女中がやとえるでしょうから 金は私が出しますからたのんで下さい[中略]/父上様/(昭和十一年一月十一日)〉 これらの書簡を読んでいると、一家の大黒柱として、まだ幼い弟妹も含めて安田家を支えていこうとする若きエリート将校の姿が浮かび上がってくる。ここからは、未曾有の軍事クーデターに身を投じようとしていた気配など微塵も感じられない。それでも、安田少尉は引き返せない道へ踏みだした。 7月12日朝の処刑5分前の記録に、次のような言葉が残されている。〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず〉 このエピソードを紹介した『渡辺錠太郎伝』の著者・岩井氏は、こう解説する。「安田少尉が処刑前日に書き残した遺書には、家計が苦しいにもかかわらず故郷を離れて勉学を修めることを許してくれた両親への感謝と謝罪の思いが綴られています。それでも、『国家の更生』のために蹶起せざるを得なかった。そこには、二・二六事件を首謀した青年将校の多くが抱いていた、疲弊する地方の農村や窮乏する庶民を救いたいという思いがあったことがわかります。 財閥・政治家が私利私欲を満たし、元老や軍閥、政党、役人が権力を恣(ほしいまま)にしている。理不尽な日本を天皇陛下の親政の下で『更生』させなくてはならない――そんな正義感が彼らを突き動かしていたのだと思います」 かたや五・一五事件を引き起こした海軍将校は、その義憤を法廷の場で訴えることができ国民からも同情を受けたが、二・二六事件の陸軍将校らに弁明の機会が与えられることはなかった。もちろん、彼らが多くの要人・警察官を殺傷した罪は重い。それでも、責任をとるべき軍首脳が無罪とされた一方で、“実行犯”の彼らだけを急いで処罰したという印象は否めず、それ以前のテロ事件と比べても公正な裁判が行なわれなかったことは明らかだろう。その意味でも、やはり二・二六事件は日本の大きな転換点だったといえる。 安田優少尉の生命保険証券は、今も弟・善三郎氏の手元にある。刑死だったためか、その保険金が支払われることはなかった。●参考資料/高橋正衛『二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動』(中公新書)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)
2020.07.23 07:00
NEWSポストセブン
【平山周吉氏書評】五・一五事件の謎を追う第一級の歴史書
【平山周吉氏書評】五・一五事件の謎を追う第一級の歴史書
【書評】『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』/小山俊樹・著/中公新書/900円+税【評者】平山周吉(雑文家) 尖鋭な問題意識と繊細な知性が、昭和史の謎を徹底的に追いつめていく名著である。 犬養毅首相が官邸で海軍の将校たちに暗殺され、政党政治に終止符が打たれた「五・一五事件」を多角的に、冷静に、リアルな息遣いで記述し、分析していく。実行者たちも、犬養家の遺族も、揺れ動く元老や重臣や政治家たちも、誰もが生きて苦悩する姿が臨場感を持って描かれている。コンパクトな概説書でありながら、第一級の歴史書であり、人間観察の柔軟さには第一級の文学作品の味わいもある。「文学」として面白いといっても、中途半端な想像力は一切排されている。確実な史実に基づいて記述し、史料の「余白」部分は慎重な推理を提示しながら埋められていく。襲撃当日をドキュメンタリータッチで描く導入部はそのまま映像化できるほどだが、そこにもいくつもの疑問が埋め込まれている。「話せばわかる」とは一体なんのことか。「問答無用」なのか、「問答無益」なのか。 事件前に上海で戦死した首謀者・藤井斉、戦後まで影響力を残す三上卓(あの「昭和維新の歌」の作者でもある)といった海軍将校たちの内面に入り込む前半部はそれだけでも収穫だが、本書の本領はむしろ後半部にある。 極刑に処されて当然な被告たちが、国民の圧倒的な同情と支持で、死刑を免れ、恩赦もあって早々と復権する。その過程には、メディア・キャンペーンによる、あっという間の世論の変化があった。「五・一五」を機に政党内閣は終わり、普通選挙の投票結果は政治を動かせなくなった。次期首相を決める「元老」西園寺公望は「憲政常道」の原則を持し、政友会総裁の鈴木喜三郎を推挙することに決めていた。それが「天皇の希望」によって、西園寺は「変心」を余儀なくされ、斎藤実「挙国一致」内閣が登場する。昭和天皇と側近たちが政党政治に引導を渡した。この刺激的な指摘には十分に説得力があり、「希望」の表明は結果的に昭和史の悲劇を生んでいく。※週刊ポスト2020年7月10・17日号
2020.07.07 16:00
週刊ポスト

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