1977年、日本赤軍はハイジャックした飛行機をダッカ空港に着陸させ、国内で収監されている活動家らの釈放などを要求した。日本政府は人質の安全を優先して要求を呑んだ。「超法規的措置」である。つまり、憲法を頂点とする立憲主義に反する行為を統治権力自らが行い、司法はこれに抵抗できず、左翼が勝ったのである。
こんなことは歴史上いくらでもある。
645年、乙巳(いつし)のクーデタが起きた。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と蘇我石川麻呂らが大極殿において蘇我入鹿を斬殺して権力を握った。この時、既に十七条憲法は成立していた(六〇四年)。その第一条は「和を以(もつ)て貴しと為す」と始まる。クーデタが「和」のはずはなく、憲法違反は明らかである。しかし、このクーデタがなければ大化改新は実現しなかった。
十七条憲法は近代憲法とは性格が違うという意見も当然あるが、統治権力と法律という意味では同じである。御成敗式目(1232年)も武家諸法度(1615年)も同様である。こんな法律があっても応仁の乱は起きたし明治維新は起きた。法律に違反しているからといって、応仁の乱や明治維新を批判した歴史学者や政治学者を見たことがない。
憲法について考える場合、大きく二つある。一つは、憲法秩序内の整合性を問う解釈学。もう一つは、憲法を成立させている統治権力を考える国家学。後者を全く無視して憲法論議が消費されている。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。
※週刊ポスト2016年5月20日号