医師が薬の準備を整えると、テーブルの上にコップを置く。この毒薬を一気に飲み干すと、身体の力が抜け、徐々に眠りに落ちる。スイスで私が見た点滴とは異なり、十数秒で死に至ることはない。家族全員がシープを抱き、頬にキスを交わす。最期の瞬間を目にすることに耐えかねた孫2人が、突然、入り口のドアを開け、庭に飛び出した。

 ハンスは、「彼らは、敬虔なクリスチャンで、心の準備ができていなかったんです」と振り返る。

 一時は、室内に緊張が走ったが、しばらくすると、再び静寂に包まれた。シープが、コップを手にする。木製テーブルの上に腰掛ける妻のトースの目をじっと見つめる。

「トース、歌ってくれないか、あの歌を」

 夫の手を握り、トースは歌い始めた。

「When I was seventeen, it was a very good year…」

 2人が出会った時代の思い出の曲、シナトラの『楽しかったあの頃』だった。人生で一番好きな歌を目の前の妻に歌われながら、シープは目を閉じ、コップの液体を飲み干した。

「素敵な旅になりますように」

 トースは、喉元からしゃがれ出る声で、優しく夫にそう囁いた。ソファに身体を倒したシープは、「眠くなってきた」と、最後に告げるとそのまま永遠の眠りについたのだった。

「人生は、美しいものでなければなりません」

 トースは、2年半前の夫の死を振り返りながら、そう語った。

「子供たちの前で、母は、泣き顔を絶対に見せない」と、長男ハンスは言ったが、私もトースが、どこかやせ我慢をしているような口ぶりであることに気がついていた。

 なぜなら、夫がいなくなって、まだわずか2年半。彼女は、私と会話を始めてから、まだ一度も「寂しい」とか「悲しい」といった、ありきたりの感情を口にしていなかったからだ。彼女なりの葛藤もあるのだろう。オランダ女性は強いのか。あるいは、この強さは夫から譲り受けたものなのか。

 取材の最後、赤いソファに腰掛けるハンスは、父がよく口ずさんでいたという言葉を、私に教えてくれた。19世紀の英詩人、ウィリアム・アーネスト・ヘンリの格言だった。

「I am the master of my fate: I am the captain of my soul(私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官なのだ)」

※SAPIO2016年6月号

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