「昨年12月25日に大腸がんのステージIVであることを告知されました。私の『5年生存率』は50~60%と言われています。私の場合、それまで行ったことがなかった神社にお参りに行くようになりました。“神様が何とかしてくれるんじゃないか”って思うんです。
人のために生きることを意識するようにもなりました。出世のことは考えず、教え子や後輩のためになることをする。価値観が変わって、風景を味わうなど、1日1日を大切にするようになりました」
これはまさに『取引』の段階だろう。死に直面した時には、医師でさえ神様にすがってしまうことがあるのだ。渡辺氏は自身の心理をこう分析する。
「これは心の防衛なんです。自分の心が壊れてしまわないように、工夫している。亡くなった母や恩師の写真をポートレートにして、毎日、仕事の終わりに拝んでいます。検査のたびに“死んだら天国の母に会える”とも考えています」
次に訪れるのが「抑うつ」の段階である。現実に絶望し、抑うつ状態に陥ることは想像に難くないが、人はそこからどうやって「受容」の段階を迎えるのか。渡辺氏は過去にこんな患者に直面した。
「昼間は冷静に『死ぬのを受け容れました』と話していた企業の元重役だった患者さんが、夜中に屋上から飛び降りようとしたケースがありました。死を受容しようとしながら、結局できずに押しつぶされてしまったようです。受容できる人はむしろ稀で、苦しみ続ける人の方が多い」
では、人はどうすれば「受容」に至ることができるのだろうか。
「末期がんだった私の恩師は、亡くなる直前に会った時に“故郷の風や匂いが懐かしいんだ”といって、ふと天井を見上げました。そう仰ることができるのは、受容した人だからです。心の整理をつけているから、会っておきたい人や、行っておきたい場所があると言える。落胆や怒りの中で亡くなる方も多いなか、受容の段階まで行ける人は幸せですね」(同前)
死を受け入れることで、残されたわずかな時間に「何をするか」「何を残すか」をやっと考えられるようになるのだ。
※週刊ポスト2016年9月16・23日号