◆日露戦争も“仇討ち”だった
仇討ちの根本は、感情論だと言っていい。封建社会は「君君たらずとも臣臣たらざる可からず」であって、臣としては仇討ちをしなければならなかった。どんな暴君相手にも、臣は臣として振る舞うことが奨励されたのが武士の世界である。
そこに理はないから、仇討ちの方法は問われない。日本三大仇討ちと言われる、「忠臣蔵」「曾我兄弟の仇討ち」「鍵屋の辻の決闘」も、ことごとく不意打ちで相手を殺めている。卑劣だからと言って、面子が立たないなどということはなく、「勝てば良し」なのだ。そこに「耐え難きを耐え」という注釈がつくと、仇討ちの正当性が補強される。
例えば、「曾我兄弟の仇討ち」は、兄弟が17年にもわたって父親の仇敵を追い続け、幾多の困難を乗り越えて、ついに本懐を遂げる。この「耐え難きを耐えた」物語は特に好まれる。
近代に目を移せば、国家間においても、「耐え難きを耐え」という感情が高じて戦争に至った歴史がある。1904(明治37)年に始まった日露戦争だ。
朝鮮半島の統治をめぐって、日清戦争が勃発。この戦いに勝利して、清国の手を朝鮮半島から引かせたものの、日本の台頭を快く思わない欧米列強のうち、ロシア、ドイツ、フランスから圧力がかかる。この三国干渉によって日本は、遼東半島の領有権を放棄させられ、国民から不満が噴出することになった。
ここで何もしないのは男が廃る。そこで中国の故事「臥薪嘗胆」をスローガンとして、月日を耐え忍び、我慢に我慢を重ねた末に、討って出たのが日露戦争だった。
ロシアの南下を食い止めるためという大義名分はあったものの、日露戦争は三国干渉で煮え湯を飲まされたことへの仇討ちだった。だからこそ、当時、どれだけ戦費が膨れ上がっても、国民は文句を言わなかった。耐え難きを耐えたからこそ、勝った時には、国民は大いに溜飲を下げたのである。
後になって合理的に考えれば、その後の太平洋戦争に踏み出す選択肢はあり得なかったのかもしれない。しかし、日清戦争から続く高揚感の中で、感情に任せて一歩踏み出してしまった。そうした傾向は、古来より一貫して変わらない、日本人の特性であるように思う。そう見ると、日本の歴史は仇討ちでしか動かない、とさえ言えそうだ。
【PROFILE】加来耕三●1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『歴史研究』編集委員、中小企業大学校講師、内外情勢調査会講師。著書多数。近著に『真田と「忍者」(しのび)』(講談社+α文庫)などがある。
※SAPIO2017年1月号