明治維新を彩る主役の一人・勝海舟は咸臨丸でアメリカに渡り、帰国後は軍艦奉行となり神戸海軍操練所を設立、日本海軍の生みの親とも称される。広い視野を持ち海外の知見をいち早く取り入れ、明治政府でも要職に就いたとされるが、作家・夏池優一氏は勝の意外な姿を指摘する。
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オランダ語を習得し、アメリカに行くなど、「先見の明」で日本の近代化に貢献した勝海舟。「先進的な日本人」というイメージが強いだろう。その海舟の出世のきっかけは代表作『海防意見書』の提出にある。
1853年の黒船来航に際し、開国や貿易で富を得て軍備を増強することを提案したこの意見書が、数ある建白書の中でひときわ目を引いたことで海舟は幕府に登用された。7年後に咸臨丸でアメリカに渡るきっかけを作り“進歩人”のイメージを決定づけたこの意見書だが、その内容はある書物を“コピペ”したとの疑惑がある。
それは海舟を支援した豪商・竹川竹斎が著した『護国論』である。そこには「貿易で国を富ませて国防に充てる」という発想が記されており、まさに海舟の主張と同じ。しかも『護国論』は黒船来航の2年前に書き上げられ、海舟にも献呈していることが判っている。さらには竹川のほか、恩師である佐久間象山の考えをまとめたとの指摘まである。決して先見性による海舟ひとりの手柄でなく、今で言う「コピー&ペースト」「リライト」によって成された可能性が高いのだ。
しかも、このような不正確に伝わる功績は、他者ではなく海舟自身によって喧伝されていた疑いが強い。