どんな人間にもスケベな要素はあるのに、良い方にも悪い方にも利用するのが人間だ。評論家の呉智英氏が、過去、人間が行ってきた発音による識別法などを振り返り、些細なことで人生を変えてしまう事例について考えた。
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「週刊新潮」に医師で評論家の里見清一がエッセイ『医の中の蛙』を連載している。五月三十一日号のタイトルは「スケベオヤジは死なず」。報道が相次ぐセクハラ事件を論じ「オヤジはすべてスケベであり、世の中はそれを利用しようという企みに満ち満ちている」とする。確かに、ポルノ産業だろうと出版界だろうと「スケベ根性を利用」している。好色を「完全に排除した人間関係」は存在しない以上、これを認めた上でその品格を保たねばならないという論旨である。
まさにその通り。好色にも品格が必要だし、スケベオヤジの利用、いや悪用にも警戒が必要だろう。
この三月に出た早瀬圭一『老いぼれ記者魂』(幻戯書房)を読むと、実際にスケベオヤジを利用しようと企んだハニートラップ事件があるのだと分かる。苦言を呈すると、この本は書名がよくない。この書名では老記者のジャーナリズム批判の本のように読める。だが、本書は一九七三年に起きた青山学院大学春木教授事件の真相を一記者の立場から半生かけて追った記録である。
事件を知る人は、もう六十歳以上だろう。しかし、青学の教授が教え子の女子学生を強姦したとして逮捕された事件は、当時大きな波紋を呼び起こした。教授は無実を訴えたが懲役三年の実刑判決を受けた。当然職を失い、家庭も崩壊。刑期を終えた後も、無実を主張し続け、小さなアパートで孤独な生涯を終えた。
だが、事件直後から冤罪説はささやかれていた。そもそも強姦被害を訴えた女子学生の行動が不審だったし、事件の背後には大学内の権力闘争や闇社会の怪人物の暗躍もあった。スケベ根性を利用された悲劇とするのが真相だろう。