「亭主関白」がもはや死語となり、現代では「強い女房」は珍しくもないが、あの歴史上の偉人たちですら、妻には頭が上がらなかった。明治以降の偉人たちにも、恐妻家は多かったようだ。
●早大の“真の生みの親”──大隈綾子
大隈重信の2番目の妻・大隈綾子は、相当な“かかあ天下”だったようで、「大隈を1人にすると失敗する」と常に同行していた。大蔵大臣も務めた重信だが、家計の財布の紐は完全に綾子に握られており、現在早稲田大学が建てられている一帯の土地の購入は綾子の独断によるものだったという。
早稲田大学にある重信の銅像が正面ではなく斜め方向を向いているのは、その先にある綾子夫人の銅像(の顔色)を窺っているからだと、学内ではまことしやかに伝えられている。
●野口英世の妻は酔って夫にDV!?──メリー
黄熱病研究で世界的に有名な野口英世は、単身アメリカに渡った後、アイルランド系アメリカ人のメリーと結婚。153センチと小柄な野口とは対照的にメリーは大柄で、相当な酒豪だったという。
研究のために毎晩帰りが遅い野口を、メリーは酒を飲みながら待っていた。が、帰宅後は口論が常で、取っ組み合いになることもしばしばだった。当時、野口夫婦の隣に住んでいた写真家の堀市郎は、
「はなばなしい取っ組み合いも度々でした。妻君のほうが体格が良く大きいので腕力も強かった」
と言い残している。野口が偉大な研究をなし遂げたのは、家に帰るのがイヤだったから……だったのかも。良妻と恐妻はまさに紙一重なのである。
※週刊ポスト2018年6月22日号