女優で怪談師の牛抱せん夏
実際は、おそらくそれから30秒もたっていなかったと思います。ふっと目の前の窓ガラスに目をやると、いるんです。自分のすぐ後ろに、全身ずぶ濡れの髪の長い女が。
その時、ふっと全身を縛りつけていた力が消える感覚がありました。パニック状態でしたが、なんとか1階まで駆け下り、事務室の扉を開けると、もう1人作業をしていた事務員の女性が不審そうな顔で言うんです。
「牛抱さん、誰もいないはずなのに女子更衣室のボイラーの電源が入ってて…誰かがシャワーを浴びているみたいなんです」
私は、今見たものを説明すべきか、どう説明すべきか迷いながら、なぜかこう答えてしまっていたのです。
「女子更衣室には、誰もいませんでした…」
「おかしいなぁ」
彼女は、ボイラーの電源をリセットするため、館内のすべての電源をオフにしました。
館内がしんと一層静まりかえり、深い暗闇に包まれると、
今度は遠くから、女のヒールのような足音がゆっくりと近づいてくるのが聞こえてきました。
〈カッ、カッ、カッ〉
足音はどんどん近くなります。着ていたシャツはびっしょりと濡れ、口の中はみるみる乾いてきます。
──また、あの女が来る。
混乱する意識の中で、『誰かお願い、助けて』心の中でそう叫びました。足音はとうとう、事務室の入り口まで。『もうだめだ』と思ったその時、なぜか、足音は静かに遠のいていきました。
──助かった…。
しかし、思ったのも束の間、
〈ガッ、ガッ、ガッ〉
今後は大きな音を立て、はっきりとした意志を持って、こちらに向かってきたのです。
そして、足音は事務室に入ると、私目がけて真っすぐに近づいてきました。
「牛抱さん、何か部屋にいます!! ここを出ましょう!!」
事務員の女性も、ただならぬ空気を感じとっているようでした。
私は恐怖で目を開けられず、音だけを聞いていましたが、恐る恐る、ゆっくり目を開けると、目の前にいたのです。さっき見たずぶ濡れの女が。恐怖のあまりに顔を背けても、女は何度も私の顔を覗き込むのです。
その目は黒く、どこまでも深い空洞になっていました。まるで、私がその女の姿が見えることを入念に確かめるように、空洞の目でじっと、こちらを見ていたんです。
この施設は、こうした心霊現象が相次ぎ、一度取り壊しになりました。しかし数年前から、またリニューアルオープンして営業を再開しているそうです。
※女性セブン2018年8月23・30日号