認知症の母(83才)を支えるN記者(54才・女性)。母がサ高住(サービス付き高齢者むけ住宅)に引っ越し、実家の片付けをすることに。しかし、そこにはさまざまな臭いが混ざり合った“不快臭”がこびりついていた。
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認知症で独居生活が立ち行かなくなった母をサ高住に転居させ、その後始末をしたのは4年前の夏。
母の家から新生活に必要な物を運んだ後、残りは廃品業者が引き取ることになっていたが、予想外のモノの山。しかも母の掃除が行き届かなくなった部屋は、業者といえども見られるのが恥ずかしい荒れようだった。少しでも物が減れば料金が安くなることもあり、できるだけ片づけることにしたのだ。
そんな前向きな片づけにもかかわらず、行くたびに玄関ドアを開けるのが苦痛だった。ひどい悪臭だったのだ。
洗濯されずに山積みにされた衣類、よく洗われていない食器や調理道具、棚の奥に忘れられた調味料や食品。そしてしつけをしきれなかった愛犬の糞尿。いろいろな場所から立ち上る不快なにおいが混ざり合い、空気が澱んでいた。
昔、帰るたびにホッとさせてくれた“実家のにおい”では、もはやなかった。両親の生活の跡なのだと、いくら自分に言い聞かせても全身が拒否反応。その場にいるだけでささくれ立った気分になった。
ここで1人、物を拾ってはゴミ袋に入れることを繰り返す。自然と深く息を吸わないようにするので、息苦しくて集中できない。一向に作業ははかどらなかった。
ふと棚の奥に蚊取り線香の束を見つけて、わけもなく火をつけてみた。すると不思議なことにあたりの空気が一変。線香の強い香りに包まれ、子供の頃の懐かしい夏の情景が浮かんで少し気が和らぎ、不快臭も遠のいた気がした。
それから片づけ作業に来るたびに、儀式のように蚊取り線香をたくようになった。
夕方、延々と終わらない片づけ作業に目途をつけて帰宅する頃、同じマンションのよその家では夕飯のしたくが始まっていた。クタクタになって廊下に出ると、数軒先の玄関から、家族の賑やかな声と魚を焼く香ばしいにおいが。
「ここの家、今夜は焼き魚か。みそ汁の具は何だろう…」などと豊かな食卓を空想すると、母がかつて作った鼻腔をくすぐる料理の数々と、今片づけてきた部屋の有り様が重なって、泣きそうになった。
「早く帰って夕飯作ろう」と自分で自分を慰め、さっさと帰途についた。途中の駅ビルの中で足が止まった。グレープフルーツの香りだ! 見ると雑貨店の店頭でルームフレグランスの宣伝をやっている。ピチピチと元気弾ける感じの女性が、「お部屋をリフレッシュしませんか!」と叫んでいる。
みずみずしく強烈なグレープフルーツの香りに包まれると一瞬で心が華やぎ、グイグイと惹かれた。「においって本当にすごい…」と感心しながら近づくと、「グレープフルーツの香りにはダイエット効果もあるんですよ」と、女性が無邪気に笑った。
残念なことに汗で化粧も剥げた更年期女の心に、その宣伝文句は一切刺さらず、小躍りした心はまたまた萎えた。
少し元気になった今も、蚊取り線香とグレープフルーツの香りをかぐと、あのときの切ない気持ちを思い出す。
※女性セブン2018年9月6日号